2月17日(土)午後3時から、クローバーハウスで、例会をもちました。今回は、以下に紹介します2本のレポートで、深くまた楽しく学びました!

中谷臣さん

インパール作戦がインドを独立させたのか?

 

教材は靖国神社のパンフレット 

 中谷さんは、私立高校の先生をされています。歴史修正主義とは何か-について、考えさせようとするのが中谷先生のねらいです。高校の世界史で、東南アジア史の授業のあとのテーマ学習で取り組まれた授業です。

 

 この授業の主教材は、靖国神社がつくっている「インパール作戦とインドの独立」というパンフレットです。

 

 そのパンフレットには、次のような記述があります。

 

〈 昭和16128日、日本は米英に対し宣戦布告し、大東亜戦争に突入した。…チャンドラ・ボース統率下のインド人志願兵15千人からなるインド国民軍(INA)も勇躍参加した。

 

しかしイギリス軍の抵抗は極めて頑強で、戦線は膠着、日本軍は食料弾薬とも杜絶し、その消耗が極限に達した雨季の6月、ついに撤退を余儀なくされた。連日の豪雨の中の惨憺たる撤退は日本軍に多くの戦死・戦病死者をだすこととなった。

 

戦後イギリスは「インパール作戦に参加したインド国民軍は、イギリス皇帝に対する反逆者」として、3名の将校を極刑に処そうとしたが、このとこがインドの民衆の怒りに火をつけた。抗議運動はインド全土に広がり、いたるところで官憲と衝突、流血の惨事となった。特にイギリス海軍所属のインド人乗組員の一斉反乱が与えた影響は大きく、遂にイギリスも事態収拾困難と考え統治権を譲渡、相当の年月がかかるであろうと言われていたインドの独立は、パキスタンとともに戦後わすか2年後の昭和22815日に達成された。

 

それぞれの国と家族を思う純粋な心と信念をもって戦った、日本軍とインド国民軍(INA)の英霊を私たちは忘れることは出来ない。〉

 

このパンフレットの記述は、何を言おうとしているのか。

・インド国民軍は日本軍とともに、イギリス軍に対して勇躍参加し戦った。

 ・インドは、ボースや日本軍の犠牲で独立を早く達成できた。

 ・日本軍とインド国民軍の英霊を忘れることはできない。

 

 歴史修正主義のウソをあばく

 歴史修正主義でインパール作戦を記述すればこうなるという典型的な実例です。中谷先生は、この記述に対し、一つ一つ歴史的な事実を示し、インパール作戦とインドの独立の実相に迫っていきます。たとえば―

 

Q.チャンドラ・ボースって、どんな人だったか?

 

 インドの独立をめざして、若い頃はガンディーのもとにいたけど、非暴力主義に反対し、ドイツに入りヒトラーの力を借りようとした。けれども協力を得られず、今度は日本に接近しようとした。日本の敗戦のあと、今度はスターリンの協力を得ようと台湾から離陸直後、飛行機事故で死んだ。そんな人物です。

 

Q.「チャンドラ・ボース統率下のインド人志願兵15千人からなるインド国民軍(INA)」とあるが、本当に「志願兵」なのか?

 

 日本軍の侵出によって、捕虜になった住民が「志願兵」か「労務者」にさせられていく実態が資料で解説されます。

 

 林博史著『インド人の戦争体験-インド国民軍と労務隊』からジョーン・バブティスト・クラスタ氏の証言が紹介されました。〈 それ(隔離キャンプ)はインド国民軍兵士によって、志願しようとしないインド人同胞に対してひどい非人間的な残虐行為が行われた強制収容所だった。…この隔離キャンプの中で多くのインド人が殺され、あるいは病院に移されてから死に、拷問に耐えられないものはインド国民軍に志願する書類にサインしてようやく釈放された。〉これを「志願兵」といっていいのかと、生徒たちは考えるのです。

 

 さらに証言は続きます。〈 1943年に入ると、新しいインド国民軍への志願兵が募集された。このときは強制されなかったが、志願しない者には別の運命が待ち受けていた。かれらは労務隊として南太平洋方面に送り込まれたのである。〉チャンドラ・ボース率いるINAの実態が証言によって明らかになるのです。

 

 

書かれていないこと 

 インパール作戦の概略について説明されたあと、中谷先生は、インドの独立を考える上で、上記の靖国パンフには書いていない重要な点を指摘されます。それは、たとえばガンディーやネルーの思想であり、独立を求めて戦われていた民衆運動であり、さらには当時の国際政治の動向です。中谷先生の作成された資料プリントには、ネルーの「もしチャンドラ・ボースが枢軸国側と協力しているなら、彼らがインドを解放すると考えることで、彼は間違っているのだ」という考えが紹介されています。また、1941年の大西洋憲章のなかで、チャーチルとローズベルトが「両国は、すべての人民が、彼らがそのもとで生活する政体を選択する権利を尊重する。両国は、主権および自治を強奪された者にそれらが回復されることを希望する」と宣言していること。さらに蒋介石が「インド人には戦争協力を訴え、イギリス人当局者にはできるだけ早くインドへ『政権』を譲渡するように訴えた」と述べていたことも、資料とともに生徒たちは理解していきます。

 

 そして、中谷先生が報告の最後に強調されていたのは、イギリス国内の政治情勢の変化です、

 

それは、19457月のイギリスの総選挙で労働党が勝利し、その結果植民地政策の転換がはかられたということです。労働党のマニフェストに「the advancement of India to responsible self-government」と書かれていることに着目させるのです。

 こうして歴史修正主義は、歴史を改竄するだけではなく、重要な事実や変化を無視することもする―ということがわかってきます。

 

絵のウソを見抜けるか?

 パンフレットに使われている絵「日本軍と共に勇躍前線に進出するインド国民軍」(原田重穂・画、左写真)のウソも指摘します。どこが間違っているか、わかりますか?

 

 

答え;この絵のねらいとしては、「大東亜共栄圏」確立のために日本軍とインド国民軍が「協力」して戦っている姿を描いていますが、インド国民軍が掲げている旗が違います。これはいまのインドの国旗です。当時インド国民軍が掲げていたのは、「自由インド」の旗でトラの絵が描いてあったものです。

 

生徒の感想

 

「自分たちの犠牲は書いてあるが、加害は書いていない。」「一部を誇張している。」「ボースは美化されているが、実際はご都合主義だとわかった。」といった感想が多かったようです。

 

 

歴史修正主義に立ち向うために

 

 歴史修正主義は、自分たちの民族や国家にとって都合のいい歴史にするために、歴史を歪曲したり偽造したり隠蔽したりする。歴史教育者として許せないという中谷先生の強い思いが伝わってくる報告でした。けれども、強い思いだけでは授業は成り立ちません。自ら個々の事実を学び、事実相互の関係をつかみ、生徒たちに示す資料や発問を準備し、一時間の授業として組み立てる。深い教材研究に手を抜いてはいけないし、授業作りに向けたたゆまぬ努力が伴わないと、歴史修正主義のウソは見抜けない。中谷先生は、そんなふうに声高に語られたわけではありませんが、歴史教育者としてのあるべき姿勢を示されたと強く印象に残りました。

 


サハリン(樺太)平和ツアー

奥村英継さん

 

戦争遺跡に平和を学ぶ会主催のサハリン平和ツアー

奥村英継さんは、府立高校の先生をされていました。この報告は、戦争遺跡に平和を学ぶ会主催の上記ツアーに参加された奥村さんがご自分の取材をもとに、写真を示しながら楽しくお話されたものです。

 

戦争遺跡に平和を学ぶ会主催の海外平和ツアーは、フィリピン、グアム・サイパン・テニアンに続いて3回目とのこと。今回のサハリンツアーは、2016823日~同月29日まで、16名の参加で行われました。団長は福林徹さん(昨年8月逝去されました)ですから、写真で元気なお姿を見せてもらい、ふとしんみりもしました。大場さやかさんも参加されました。訪問地は、サハリン南部で、ユジノサハリンスク(旧・豊原)、ドーリンスク(旧・落合)、ホルムスク(旧・真岡)、コルサコフ(旧・大泊)などです。

 

 

サハリン(樺太)ってどんなとこ?

 

サハリンは、1875年の樺太・千島交換条約でロシア領になりました(この条約は、戦争をせずに領土問題で合意ができためずらしいケースで、千島列島全部が日本領になった)。

 

日露戦争末期の1905年夏に日本軍が占領。同年のポーツマス条約で、北緯50度以南の南サハリンが日本に割譲されましたが、このことが、1910年日本が朝鮮半島を植民地化したあと、多くの朝鮮人がサハリンに渡るきっかけになってしまいました。

 

日本の敗戦後、19459月の時点で、約30万人の日本人がいたようです。1951年のサンフランシスコ講和条約で日本は南サハリンの権利を放棄しました。多くの日本人は引き揚げましたが(残った日本人もいます)、韓国とソ連の間に国交がないことなどから、韓国政府によると約43千人の朝鮮半島出身者が取り残されました。1990年韓ソ国交正常化まで、韓国への永住帰国は許されなかったというのです。現在は一世やその子孫ら約2万人が暮らしています(大半がロシア国籍)。

 

以下、奥村さんの報告と帰国後作成されたレポート集をもとに、このHP作成係の責任でまとめてみます。

 

A;日本人が残した建造物がたくさん残っている

 

福林さんは、右の記録集の827日の日誌で次のように記されています。

 

〈この日は、ユジノサハリンスクから直線距離で西北約60㎞にあるサハリン第二の都市ホルムスク(旧・真岡)に向かいました。

 

バスが国道に沿ってユジノサハリンスク市からホルムスク市に入った辺りに、かつて瑞穂村と呼ばれた人口1000人ほどの村がありました(現在は無人)。ここでは、アジア太平洋戦争最末期の1945820日~25日、ソ連軍がホルムスク(旧・真岡)に上陸して進撃して来るという緊迫した情勢の中、日本人住民による27人の朝鮮人住民虐殺事件が起こりました。

 

当時、瑞穂村の青年団の軍事教練などにあたっていた数人の在郷軍人らが中心になって、ソ連軍が進攻して来たら、朝鮮人が呼応して日本人を襲うことは間違いないから、彼らを殺してしまおうという計画が立てられ、青年団の若者ら10数人を集めて、820日に他村から避難して来た朝鮮人男性1人を殺害したのを手始めに、21日に、村に住んでいた朝鮮人男性17人を殺害、さらに数日後、残された家族の女性と子供9人を殺害したものです。

 

事件はひた隠しにされましたが、約1年後にソ連軍の知るところとなり、事件に関与した日本人がウラディボストークで軍事裁判にかけられ、指導的立場にあった7人が銃殺刑に処せられました。

 

現在、事件現場には朝鮮語の碑文の刻まれた慰霊碑が建立されており、私たちも初めて知る痛ましい事件に強い憤りを覚えつつ、犠牲者の冥福を祈って手を合わせました。〉

 

C;真岡郵便局での「集団自決」事件

 

これも、福林さんによる記録集の827日の日誌を引用します。

 

1945820日朝、日本はすでにポツダム宣言を受諾していましたが、ソ連軍は千島・樺太の武力占領を目指し、真岡の海岸に艦砲射撃を加えた後、上陸して来ました。これによって真岡では約500人の死者が出て、市民はパニック状態に陥っていました。

 

そのような中、真岡郵便局に勤めていた9人の電話交換手の若い女性たちが最後まで職場を守りながら、青酸カリで服毒自殺するという悲劇がありました。

 

現在、真岡郵便局の跡には、新しいビルが建っており、郵便局や銀行が入っていますが、昔の建物はなく、9人の電話交換手の悲劇を伝えるモニュメント類もありません(北海道の稚内市に「九人の乙女の碑」が建立されている)。しかし、せめて写真だけででも、その出来事を記憶しておきたいものです(ただし、この事件を軍国美談として利用しようとするなどはもっての外です。この事件は人命軽視の軍国思想を押し付けられた結果の悲劇でした)。〉

 

D;歴史の共有のために

 

サハリン韓人文化センターを訪問

この平和ツアーでは、825日にユジノサハリンスク市内のサハリン韓人文化センターを訪問されました。そこで、韓国離散家族協会のイ・スジン名誉会長(当時60歳)と韓国人残留二世のパク・スノクさん(当時49歳)にインタビューをされています(詳細は、ツアーレポート集を参照して下さい)。

 

インタビューの冒頭、パクさんが次のように切り出しておられます。

 

「今日は、日本人の団体にこの文化センターに来ていただいて大変嬉しく思っています。韓国に興味がある人もおられるということで大変感動しました。新聞などの情報も日本で伝えられると思いますが、正しい情報を伝えてくださることを希望します。」

 

これを受けて、福林さんがこう話しています。「私たちは、日本国内外の戦争の遺跡を調査して二度と戦争を起こさないことを目指して活動しています。(略)日本とロシアは2回戦争をしました。日露戦争と第二次世界大戦です。日露戦争の原因は日本が朝鮮を植民地にしようとしたことにありました。第二次世界大戦の時は朝鮮人に強制労働をさせて、多くの朝鮮人がサハリンに残されました。このような問題を解決し、日本、ロシア、韓国・朝鮮がどのように平和な世界をつくることができるかを考えたいと思います。色々お話を聞かせていただければ幸いです。」

 

つまり、双方基本的な立場を確認した上で、このあと率直なやり取りを行っています。基本的な立場とは、歴史の事実に真摯に向き合おうとすることであり、とるべき戦争責任を自国政府にとらせ、この先戦争をしないという決意を持っているということです。歴史修正主義や偏狭なナショナリズムではなく、相互理解を深めようとする立場に立つということでもあります。依然として、日本と周辺アジア諸国との歴史問題をめぐるギクシャクが続いていますが、この平和ツアーはそうした問題を克服していくための条件を示しているといえるでしょう。