9月の例会は、ある学校の行事についての報告と検討でしたので、このHPに掲載するのは差し控えました。

 

車石・車道フィールドワークin山科

 1020日(土)曇ったり晴れたりのフィールドワーク日和。13JR山科駅前に集合。着いたら見慣れない方々がいっぱい。しかも高齢者が多い。今日は、車石・車道研究会と共催のフィールドワークです。京都歴教協の参加者よりはるかに多い人数です。参加費500円をお支払いすると、ネームカードと素敵な冊子をいただきました。

主催者を代表して、研究会会長の佐藤賢昭さんから挨拶があり、今日のガイドの久保孝さんが日程の説明をされ、いざ出発。

車石とは何?

一燈園の車石
一燈園の車石

車石とは、江戸時代後期に京都周辺の三街道(京津街道・竹田街道・鳥羽街道)の車道(人や牛馬が通る街道と併設されていた牛車専用の道)に敷かれていた敷石のこと。明治初年に撤去されたけれども、街道の側溝石垣などに転用され、今も残っています。琵琶湖疏水を正しく理解するには、それ以前の京都をめぐる交通路の開削・改修、つまり車石の敷設、日ノ岡峠切り下げ工事などを知る必要があります。疏水学習は、北垣知事・田辺技師を中心にした行政賛美で終わってはいけない。車石は、疏水以前の物流を考える上で、すばらしい地域素材だという久保先生はじめ、研究会のみなさんの思いがスタート直後から伝わってきました。 

安朱(あんしゅ)小学校の車石

門を入って左手に設置されていました。こう書いてあります。「大津を結ぶ東海道にしき並べられた石の一つで。車石と呼ばれています。二列にしかれた車道の上を、米をはじめ多くの重い荷物を積んだ牛車が通りました。昔の道は、土道であったために、雨が降ればぬかるみ、牛車がスムーズに通ることができませんでした。そこで車輪が通るところに、花崗岩の厚い板石をしき並べ、通りやすいようにしました。」とてもわかりやすい説明ですね。 

洛東高校の車石

正門を入って左側にありました。説明板の末尾に「第一回卒業生佐藤賢昭氏より寄贈されたものです。」とあります。府立洛東高校は昭和323月に第1回卒業生を出しています。写真左がその佐藤さんです。右は早川幸生さんで、早川さんは第11回卒業生とのことです。

 

母子地蔵

疏水に沿って歩いていると、お地蔵さんを収納した小さなお堂がありました。その説明板にこう書いてありました。

「第一疏水は1892年完成され、大津から京都へ人や物資を運搬する役目をしていて、毎日船が通っていた。しかし今のように安全設備がなかったので、あやまって疏水に落ち命を失う子どもが何人か出た。当時、船頭であった善兵衛という人が何とかして子どもの命を守るためにお地蔵を建立しようと申し出られ、当時の安朱北部の住人20余名が相談し、雄松(近江舞子)の石を使って名工甚助さんが精魂こめて1903年に完成されたのが母子地蔵で、今も子ども達を守っていて下さいます。」痛ましい事故があったことがわかりました。疏水の知られざる一面を知ることができました。 

四ノ宮船溜(ふなだまり)と諸羽トンネル

 明治23年に竣工した第一琵琶湖疏水には、大津の第一トンネル東口から蹴上インクラインに至る間に、5カ所に船溜(ふなだまり)が設けられました。船溜は水路の幅を広げて船をつなぎとめるためのものです。疏水を上り下りする途中で船をつなぎ、荷物の積下ろしや船頭たちの休憩場所として使われました。

 当時疏水路は四ノ宮から安朱まで山すそに沿って流れており、水路幅の広くなったこの四ノ宮船溜も、明治から大正期にかけて荷下ろしなどに利用されました。昭和に入り、日本国有鉄道(国鉄)が、京都~草津間の輸送力の増強や湖西線の新設のため、疏水路の近くを走る軌道の増設を計画。疏水路と軌道が接近して危険な状態になる、四ノ宮から安朱までの区間約800メートルの水路をトンネル構造に変更し、昭和45年に諸羽トンネル(520m)が完成しました。

 このトンネルにはいまのところ扁額がありません。車石を使った扁額を設置しようという計画があるそうです。 

一燈園は車石の宝庫

一燈園の入り口
一燈園の入り口

一燈園は、「無所有」や「奉仕」を信条に活動する団体で、宗教団体ともとれますが本尊はなく、修行者(「同人」)は大自然(「おひかり」)に向かって礼拝し、捧げられたり得られた物品や金銭は「おひかり」から預かったものとして運用しているとのこと。

西田天香と妻・照月
西田天香と妻・照月

そもそもは滋賀県長浜市生まれの西田天香(本名;市太郎、1872-1968)が北海道開拓の事業に失敗したあと、京都へやってきて鹿ヶ谷に一燈園と命名し開設したのが始まり。その後1928年喜捨する実業家がいて、現在の広い敷地(山科区四ノ宮)に移転してきました。倉田百三(1891-1943)が一時期一燈園で信仰生活を過ごし、そこでの思索をもとに『出家とその弟子』を書いたということもはじめて知りました。

一燈園の高台から山科盆地を見る
一燈園の高台から山科盆地を見る

私たちが訪れたこの日は、90周年の記念行事が終わったあとだったようで、車石を見学する私たちに合掌する同人もおられました。現在一燈園には200名を超す同人が共同生活をしているようですが、各人には信仰の自由があります。宗教法人ではなく、財団法人懺悔奉仕光泉林として、建築、出版、農業のほか、幼小中高校の運営もしています。京都や滋賀をはじめとして、学校や家庭、事業所を訪問しては無償で便所掃除を行うことも修行の一つとしています。

そんな一燈園へなぜ行ったのかというと、一燈園が車石の宝庫だからなのです。石垣に、庭石に、踏み石に、さまざまな車石が使われ残っていました。

四ノ宮地蔵の手水所にあったものは?

一燈園を出て、JRの下をくぐり、旧東海道出て西へしばらく歩いていると、徳林庵(とくりんあん)が見てきました。ここに六角堂があり、山科地蔵(四ノ宮地蔵)が安置されています。すぐ隣りに井戸があり、その井戸の前に、見るからに年代物の石造りの手水所があります。見ると壁面にどこかで見たロゴが掘ってあります。日通(日本通運株式会社)のマークとなったもとがこれだというのです。

つまり、こういうことです。江戸時代、東海道を往来した旅人や飛脚は徳林庵境内の井戸付近で休憩していた。1813(文化10)年1月、京都=江戸の定飛脚問屋・宰領から茶釜が寄進され、1821(文政4)年6月、馬のための 井戸が掘られた。この手水所の瓦や井戸わくにきざまれた「通」の字は、「継(つぎ)飛脚」ではない「通し飛脚」として、また天下の「通行御免」を得て往来する飛脚仲間の誇りのしるしであった-というお話でした。

なんでマンションに入って行くの?

旧東海道から現在の三条通りに出る手前に、エスポワール京都というマンションがあります。ガイドの久保さんたちがその中へ入っていきました。「えっ?何があるの?」と思いながらついて行くと、一階のフロアに箱庭が作ってあります。その中に車石がありました。臼石もあります。箱庭のオブジェとして活用されていました。

大野木邸の石垣

車石をふんだんに石垣に利用してあるのが大野木邸です。大野木家は元々山科竹鼻村の郷士で、戦後、大野木秀治郎(1895-1966)氏は大野木製作所社長を経て、貴族院議員・参議院議員に当選し、吉田内閣では国務大臣も歴任。また京都商工クラブ会長や知恩院や妙心寺の総代、京都外国語大学の理事長なども務めた人物です。

大野木邸の石垣の車石がどのような経緯で運ばれてきたか、よくわかないそうですが、いただいた資料の中に次のような記述がありました。西口さん(故人)というかたの証言です。「昭和初期の頃、逢坂峠付近で働く朝鮮人労働者からたくさん車石をわけてもらいました。主人の友だちだった大野木さんもたくさんもらったと聞いています。主人はいつも『石そのものはたいした石ではないけれど、歴史的に謂われのある石なので、大切にしないといけない』と言っていました。」

十文字模様の車石もあります。これは、長く使っているうちに轍の溝が深くなり、牛車の車輪の回転に支障をきたしたため、石をいったん掘り起こし90度回転して再び埋め直し使用を続けたために十文字の溝ができたということです。

 

えっ?何で、志賀直哉?

大野木邸の石垣を見たあと、山科川に沿って少し南下すると、「山科之記憶」と書いた石碑がありました。すぐ隣りに小さな碑があり、その碑文にこう書いてありました。〈志賀直哉旧居跡/山科川の小さい流れについて来ると、月は高く、寒い風が刈田を渡って吹いた。山科の記憶/志賀直哉は、大正十二年十月から同十四年四月までの約二年当地に居住、こゝでの体験をもとに、「山科の記憶」「痴情」「瑣事」「晩秋」など、一連の作品が生まれた。 細い土橋、硝子戸、庭のある一軒家で、その清澄な文学のように、美しい山科の自然に囲まれた静かな住まいであった。〉これらの碑のそばにも車石がありました。

フィールドワークはやっぱり面白い!