近畿ブロック研究集会in滋賀

1日目

11月17日(土)・18日(日)の2日間、JR大津駅前の滋賀大学大津サテライトで開催されました。本部からは桜井事務局長が参加され、京都からは2日間で12名が参加しました。京都駅から大津駅までJRで約10分!京都と滋賀は歴教協同士の関係だけでなく、距離もこんなに近いのです。滋賀歴教協の木全清博さん(左写真)から歓迎の挨拶がありました。

地域実践報告

「はまらない子どもとの出会いを考える」

日野 貴博 さん(学習支援ボランティアサークル「Atlas(アトラス)」代表)

Atlas」は、学生ボランティアの協力を得て、経済的にハンディのある中学生に対して学習・生活支援を行っている団体です。指示したりするのではなく、本人が自分で選び・決定することを大切にします。それが基本スタンスです。「学習支援」という枠にはまらない子どもたちと出会い、関りを持ち、すべての子どもや若者の居場所と出番があるような環境・地域をつくっていきたいという思いが伝わってくる報告でした。

 

記念講演「改憲案の問題点を整理する」               ~教育の無償化、第9条と自衛隊を中心にして~

弁護士 土井 裕明 さん(土井法律事務所)

改憲の4つの論点 ①憲法9条と自衛隊 ②参院合区解消 ③教育無償化 ④緊急事態条項のうち主に①と③について話されました。

 教育の無償化については、政府の方針では全ての教育を無償化する意思は見られず限定的なものだと指摘されました。例えば幼児教育については「保育の必要があると認定された0~2歳児で住民税非課税世帯」が対象になり、高等教育でも全教育費ではなく授業料が対象であり私立の無償化も限定的であることなどです。自民党の改憲案には教育の無償化は入っていないし、また改憲しなくても教育の無償化は実現できます。教育は本来一人一人の個人が幸福な人生をおくるために必要なものですが、改憲案では、教育は国の役に立つ人材を育てるためのものになっており、この論でいけば役に立たない者は軽視されていくのではないかとも考えられます。

 憲法9条と自衛隊の問題については、特に92項が大事であると強調されました。91項の内容はパリ不戦協定以降の他の法律でも見られるが、2項の戦力の不保持と国の交戦権の否定が極めて重要だということです。改憲案にある自衛隊の存在や行動を「法律の定めるところにより」としてあるのは、憲法上何の制約もなく、核武装や先制攻撃など法律で何とでもできることになってしまいます。また、「立法者の意思」という点も大事であり、当時の政府の国会答弁や文部省がつくった「新しい憲法のはなし」の内容も重視されなければなりません。

 安倍首相の3項をつけたすという考えは「自衛隊は憲法違反」「自衛隊は憲法違反ではない」とのどちらの立場から考えても論理的にはあり得ない方向であることも示されました。

 

2日目

第1分科会 歴史認識

「民衆の生活・文化史から見る歴史の授業~『清明上河図』の授業実践から~」

滋賀 近江兄弟社高校 内田一樹さん

 中国・宋代の絵画「清明上河図」を使った教育実践報告です。

 授業の流れは、次の通り。まず、北宋の都・開封の様子を描いた長大な「清明上河図」をプリントアウトし、5分割して模造紙上部に貼り付けます。生徒はそれを見て、気付いたこと・疑問点について、絵の上に印をつけたり、コメントを書いた付箋を貼りつけたりします。グループ・ワークの場合、各グループが5分割のうちいずれか1枚を担当し、グループで発見・疑問を出し合った後、5分割された絵画を一枚につなげ、クラス全体で発見・疑問を共有します。最後に、自分の興味を持った発見・疑問について、生徒各人が800字のレポートを作成し、提出します。

 内田さんの勤務校は単位制高校。クラスメイトがそろわない状況もある中で、生徒の関心を引きつける様々な工夫をされており、絵画を使った授業もそのひとつです。分科会の参加者からは、「『清明上河図』はインターネット・オークション等で複製の巻子本が手に入る」「生徒がそろわないのであれば、1回完結型の授業も選択肢に入れてよい」など、授業改善のためのアイディアが多数寄せられました。

 

「奈良の学校と戦争(その1)」

奈良  生駒市立生駒南小学校 西浦弘望さん

 西浦さんは、奈良の学童疎開についての調査報告、およびそれを使った教育実践報告です。

 太平洋戦争中、大規模な空襲のなかった奈良では、地域に密着した平和教材がなかなか見つかりません。西浦さんは、奈良市街の旅館、および奈良に本部を置く天理教教会が、多くの学童疎開を受け入れていたと知り、その教材化をめざして、10年前から調査を始めました。

 旅館については、疎開先の火事により、児童2名が死亡していることが分かりました。その事実は、当時の新聞報道には記されていません。天理教については、疎開当時の様子を親族から聞いて覚えている関係者の方に出会うことができました。当時の写真も残されています。

 平和教育の実践として、西浦さんは児童・生徒に「自宅にある戦争関連の物品」を持ち寄らせる宿題を出されたそうです。戦時中の話を直接聞く機会はなくなっても、当時の「モノ」は意外に多く身近に遺されている。戦争を語る「モノ」たちを、いかに次世代に伝えていくか。収納、管理、管理の引き継ぎなど、現実に横たわる困難な状況について、参加者の間で活発な議論がなされました。

第2分科会 現状認識

「憲法9条に自衛隊を明記するとどうなるの?」

兵庫 兵庫県立北条高等学校 稲次寛さん

 「日本のために日々活動してくれている自衛隊が国民からの圧倒的な支持を得ているにもかかわらず、憲法学者から『憲法違反』のレッテルを貼られ続けているような状態は異常であるから、堂々と自衛隊の存在を明記することで、そのような不名誉で無責任な状態を解消しよう」-安倍首相は、201753日にビデオメッセージで憲法改正案を提示しました。この安倍改憲案について、高校3年生の選択科目で取り組んだ実践です。「どのようなねらいがある改憲案か」「9条をそのままにして自衛隊を明記すると、本当に何も変わらないのか」という問題、さらには日米安保体制をどうするのかという問題についても、自分の問題として考えられるように工夫をされた実践です。

 まず、安倍改憲案を読み、まとめていきます。国民が支持している自衛隊は「災害派遣」や「専守防衛」の自衛隊。しかし明記される自衛隊は安保法制後の自衛隊であり、集団的自衛権が認められた自衛隊でアメリカ軍とともに戦争する自衛隊になる-ということをつかんでいきます。軍事力としての自衛隊が一層増強されるという問題です。

 「アメリカからの要請で海外派兵も断れなくなる。憲法を変えなくても不都合はありません。9条があったおかげで自衛隊は戦争に行かずに済みました」-という元自衛隊員の証言も学びます。改憲についての各種世論調査も紹介されます。

 こうした授業の結果、生徒たちはどういう意見を持ったのでしょうか。

19条に自衛隊を明記することについて…賛成3、反対14、わからない1

2)自衛隊をどうするのか…国防軍にする5、国際救助隊にする12、縮小する0、なくす0

3)日米安保体制をどうする?…安保維持2、安保破棄して平和条約に9、わからない8

4)あなたの意見に最も近いのは?A憲法堅持・安保堅持6B憲法破棄・安保堅持0C憲法堅持・安保破棄11、憲法破棄・安保破棄0

1)~(4)のそれぞれについて、生徒たちの意見を紹介分析したあと、稲次先生は実践のまとめと課題を述べています。

 《生徒の意見表明から考えると、憲法9条を変えることには強い不信感がある。なかでも集団的自衛権を認めることや安保法制について否定的な意見が目立つ。(中略)しかし、明記される自衛隊が、国民やみんなが思っている自衛隊ではないこと、さらに戦後憲法9条があったおかげで自衛隊に対して歯止めになってきたことの認識は甘い気がする。そして何よりも日米安保体制に日本は守られてきていることに幻想を抱いている。アメリカが日本を守ってくれているとか、日本を守るために沖縄に米軍がいるという政権のいう「アメリカの抑止力」や「核の傘」という理論に陥っている。

憲法の「力によらない平和」から「力による平和」の追求をという違いを理解する方向での実践が求められている。そのためには、戦後の憲法9条のはたしてきた役割をもっと学ぶ必要があるだろう。》

「世界遺産の教材化」

大阪 金蘭会中・高校 鈴木惇平さん

 「世界遺産を教材化して、生徒は何を学んだのか」「世界遺産をわざわざ教材化する必要があるのか」-そんな指摘にあらためてふり返ってみようという思いで報告をされました。

 1部で、世界遺産の意義や歴史について概説されました。第2部で世界遺産の教材化の具体例をあげています。例えば、ヴェルサイユ宮殿と法隆寺とゴレ島(奴隷貿易の拠点だった島)を見せます。「共通点は何か」と発問します。世界遺産と気づいても、なぜゴレ島が世界遺産なのか、生徒たちの疑問が残ります。奴隷貿易という過去の負の遺産を後世に伝えるために価値があることに気づかせます。この授業は、中3公民の、基本的人権の尊重の導入部で扱うということです。また例えば、原爆ドームとアウシュヴィッッの強制収容所とビキニ環礁を見せます。生徒たちはビキニ環礁に戸惑います。水爆実験の写真を見せ、周辺に強い放射能を帯びた“死の灰”を降らせ、日本のマグロ漁船も被曝したと説明されます。つまり平和主義の授業にも活用できる事例です。

 3部では、世界遺産を使った考える授業の紹介です。例えば、マカオの歴史地区、白川郷・五箇山の合掌造り集落、石見銀山遺跡など、世界遺産に登録されると観光地化が急速に進みます。環境や自然破壊、交通渋滞の進行をどうくい止め、持続可能な観光計画をどううち立てていくか、生徒に考えさせる授業が展開されます。「前まで直接触れることが出来た縄文杉も今は離れたところから見ることしか出来なかったり、海外においても、入場制限を厳しく規定する遺産もあることを知って、観光客は世界遺産を大切にし、誰が訪れても気持ちの良い状態で、そして“持続可能”であり続けるようにしっかりと最低限のルールは守るべきだと思いました。」など、生徒たちが自らの言葉で考えようとしている様子がわかりました。そして観光地化による問題点を考えさせた授業のあとに行った小テストも紹介されました。百舌鳥・古市古墳群を例に、「維持管理していくために必要なことは何か、あなたの意見を述べよ」という問題です。

 4部で、鈴木先生はこれまでの自分をふり返って次のように述べています。「中学生の頃、部活動の先輩に『生きがいのあることをやらないと』と言われたのをきっかけに、自分のやりたいこと、好きなことが出来るように将来を考えてきた。幼少期に自分がやりたかったことが実際に仕事になっている。世界遺産研究も同じで、気付いたら世界史が好きで、世界遺産が好きになり、それを教材と融合させている。」「高校3先生で学ぶ歴史の授業は、大学で史学科などの分野を専攻しなければ、人生で最後の歴史の勉強の時間になるかもしれない。私が授業を行う中で、生徒に感じて欲しいことは、学んだことを次の世代へと伝承して欲しいということである。まさしくその考えこそが、世界規模の保護条約である世界遺産の概念と一致すると思う。」

 

第3分科会 授業づくり

「甲子園はいつもそこにある・『幻の甲子園』~当事者性を考える~」

京都 龍谷大学付属平安高校 佐々木じろうさん

 佐々木先生が「幻の甲子園」を知ったのは、旧制平安中学校の野球部員が甲子園で入場する一枚の写真との出会いからだったといいます。その胸には「HEIAN」ではなく、漢字で「平安」と書かれていました。ユニフォームにあこがれて入学してきた、いまは龍谷大平安高校の野球部員に、この衝撃を感じてもらおうと授業化をはかり改良を続けています。

 全国高等学校野球選手権は1915年に始まり、1942~45年の4年間の中断をはさみ、2018年には100回目を迎えています。しかし、1942年中断しているはずの甲子園大会が開催されていたのです。朝日新聞ではなく、文部省(当時)と大日本学徒体育振興会が主催していたのです。目的は「戦意高揚」です。選手を「選士」と呼ぶ、球をよけてはだめ、バックスクリーンに「戦い抜かう大東亜戦争」のスローガン、ユニフォームに漢字表記を強制など、戦時色の濃いものとされました。公式の記録に残っていないので「幻の甲子園」と呼ばれるのです。

 例えば2時間目の授業。佐々木先生は、決勝戦の内容を書いた用紙を全員分に区切って配布しています。生徒たちは、手元に来ている内容しかわかりません。試合結果は知らない状態で読んでいくわけです。T「感情をこめて読み上げよう」S11回裏、徳島商、四球押し出しで77の同点。なおまだ2アウト満塁」S「林が打席に入る。初球ボール。…3ボール2ストライクのフルカウント。運命の6球目。ピッチャー富樫の渾身のストレートは真ん中やや高めに投じられた。林のバットは動かない。球審から告げられた言葉は…ボール!」「え~?」「うそやん、負けたん?」-授業中の盛り上がりがヒシヒシと伝わって来ます。

 この魅力的な実践は、生徒たちに大きな共感と感動を与えました。このHPの7月例会のページをご覧下さい。また『歴史地理教育』11月臨増号にも掲載されました。ここでは、佐々木先生による本実践の「まとめ」を以下に紹介します。

 《当事者性が高まったかどうかは、生徒の内面に入り込む授業だったのかどうかだろう。この答えは、「個々の生徒にとって『意味』のある授業だったか」という問いに二なる。このように考えると、授業終了時点で答えを言うことはできない。自分の中でそれが次の何かを生み出し、自分の中で「意味」を持つまでには時間がかかるからだ。しかし、何らかの形で答えを言わなければならないとすれば、この授業が生徒にとって、「時代」や「甲子園」について新しい「意味」をもたらすきっかけとなったかを、生徒の声を読み取ることで「評価」するしかない。「幻の甲子園」は、アスリートコース生にはストレートに伝わり、「共感と感動」を与えるものであったと推測できる。しかし、プログレスコース生にとっては、甲子園だけでは、「共感と感動」が難しかったようだ。学校史との接点や今の生活と当時の生活の接点を持ち、当時の選士の声を聞くことで、それが得られるきっかけになった可能性を持つ。今後、日本史教科書の単元と結びつける教材として深化するようにしたい。》

 

「争乱の時代から天下泰平の時代へ~『権力』の視点で中世から近世への転換をとらえる~」      和歌山 和歌山大学教育学部附属中学校 山口康平さん

 山口先生は、社会科リテラシー研究会(代表/原田智仁)に参加し、実践と研究を深化させておられます。歴史的リテラシーを育てる学習とは《「真正の学習」であり、生徒が歴史家のように歴史を実践し“do”、構築する“make”ものである》とする考えに立ちます。切実性をもって学ぶことの重要性を強調されました。

 また、イギリスの歴史教科書SHPSchool History Project)を紹介されました。SHPでは、単元ごとに「移動と定住」「戦争」「権力」「当時の生活」「思想と信念」「帝国」「民主主義」などのテーマを設定し、資料をもとに生徒が考え、議論しながら社会について様々な概念を習得できる構成になっています。しかも、古代~近現代の各時代において各テーマを系統的に追究できようになっており、とりわけ「権力」とは何かをつかんだ上で、権力のあり方について熟議し、市民として社会参加する資質・能力を育むことが目指されている-との興味深い指摘がなされ、本題に入りました。

 報告された「争乱の時代から天下泰平の時代へ」は、大単元「近世の日本」の前半部にあたり、ここを山口先生は導入のあと3つの小単元に分け、計10時間で授業されました。例えば第3時「安土桃山時代①ヨーロッパ人の来航と信長/本能寺の変の真相は?」では、怨恨説、野望説、黒幕は朝廷説、黒幕は反信長同盟説などを、PPTを駆使し効果的に説明したあと、なぜ光秀が信長を攻撃したのかを考察し、自分の考えを書かせました。その際、歴史学の研究成果を資料として提示したうえで、自分の考えの根拠とするように指導しています。第4時「安土桃山時代②信長から秀吉へ~信長と秀吉の紀州侵攻~」では、「和歌山には有力な戦国大名がいないのはなぜか?」と発問をし、在地有力者が武装独立して自治を行っていること、強大な宗教権力が存在していることにより権力が分散していることを押さえたうえで、和歌山大学フィールドミュージアム・ビデオライブラリー「秀吉の太田城攻め ~中世の自治から近世の平和へ」を視聴させています。地域教材を活用して、当事者性を喚起させようというねらいです。

 また、第7時「安土桃山時代の文化」では、「戦国大名」「豪商」「琉球」「朝鮮出兵」「南蛮文化」など22のキーワードを示し、桃山文化のポイントをマッピングさせる方法を使い、因果関係をふまえたまとめをさせています。

 そして第10時「中世から近世への転換をとらえよう」(公開授業)は、時代の特色を大観するために「変化と継続性」の視点から振り返りを行っています。具体的には、中世から近世への変化の中で最も重要だと考える変化を選ばせ、なぜそう考えるのか論述させています。

 一時間ごとの授業のねらいや教材、発問がていねいに報告されただけでなく、単元を通してどういう視点でどういう認識を育てて行こうとしているのか、問題提起に富む報告でした。

 

フィールドワーク「旧東海道大津宿周辺を歩く」

案内 八耳 文之さん(元滋賀県立高校教諭)

大津駅13:00出発大津祭曳山展示館旧東海道沿いの「札の辻」京町通り→大津件跡地→義仲寺(国指定史跡)15:30ごろJR・京阪 膳所駅 解散

 

 大津祭は湖国滋賀の三大祭の一つに数えられ、天孫神社の例祭に曳き出される曳山行事で、国の重要無形民俗文化財に指定されています。大津の町は大津城の開城(1600年)後、江戸時代は幕府の直轄地となり湖上輸送の拠点として、また東海道五十三番目の宿場町として大いに賑わいました。そうした大津の町で、豊かな経済力を持った町衆の心意気を背景に生まれた大津祭は、近世都市祭礼の性格をよく残しているとのことです。

 大津祭は13基の曳山と3つの宵宮飾りで行われる曳山行事です。曳山はすべてにからくりが載っていることと、大きな御所車の三輪形式が特色です。からくりは、曳山の意匠となった謡曲や能楽あるいは中国の故事の一節を短い時間の中でシンプルな動きをもって表現するという、大津独自のもので、曳山のからくりとしては国内で最も古いもののひとつと言われています。このからくりは、巡行路上の二十数カ所で披露され、訪れた人々を大いに楽しませています。(展示館のリーフレットより)

 

 大津事件の現場に立つ碑の前で、八耳先生から詳しい解説をしていただきました。

 1891(明治24)年511日、来日中のロシア皇太子ニコライが琵琶湖を観光し、滋賀県庁での昼食後、人力車で現場を通行中、警備中の巡査津田三蔵に斬りつけられた事件です。動機は不明であるが、当時流布していた、西郷隆盛が生存して帰国するという噂の影響を受けていたとされる。また、津田が最初に警備についた圓城寺(三井寺)観音堂横の西南戦争記念碑をニコライが訪問せず、随行するロシア人士官が碑に敬意を表さなかったことに憤り、ニコライに対する殺意を抱いたと証言している。

 ニコライの傷は幸いに浅く、津田も逮捕された。明治天皇はただちに京都に向かい、ニコライを見舞った。時の松方正義内閣は、事件を担当した大審院に圧力をかけ、天皇・皇太子に危害を加えた者を処罰する大逆罪を適用して、死刑にすることを要求した。しかし、裁判を担当した判事は、大審院児島惟謙の意見に従い、通常の謀殺未遂罪を適用して、無期徒刑を言い渡した。政府の圧力に屈せず、司法権の独立を守った歴史的な事件である。

 なお、津田は判決後、北海道の釧路集治鑑に送られ、事件の4か月後に獄死した。事件がおこった現場に、1970(昭和45)年この碑が建てられた。(『滋賀の歴史散歩』より)

 八耳先生の授業を受けているみたいで、楽しいひとときでした!

 

 

 義仲寺(ぎちゅうじ)は、源義仲(木曾義仲)の死後、巴御前が墓所近くに草庵を結び、「われは名も無き女」と称し、日々供養したことに始まるとされる。戦国時代に荒廃したが、天文221553)年頃、近江守・佐々木氏によって再興された。当初は石山寺の配下であったが、江戸時代には圓城寺に属した。

 松尾芭蕉は、この寺と湖南の人々を愛し、たびたび滞在した。無名庵で句会も盛んに行われた。大坂で亡くなった芭蕉だが、「骸(から)は木曽塚に送るべし」との遺志により義仲墓の横に葬られた。