第70回京都大会・全体会の加藤陽子さん(東京大学大学院教授)の講演(概要)

〈記念講演〉『明治150年』を考える

政府の意図は?

 今年2018年を日本政府が「明治150年」と位置づけ、国・都道府県・民間一体となって奉祝しようとする行為は、同時代を理解したいとの強い願望や学問的な検証といった動機からくるものとは異なっています。安倍総理が今年の年頭所感で、幕末維新期、「国難とも呼ぶべき危機を克服するため、近代化を一気に推し進める。その原動力となったのは、一人ひとりの日本人」で、その日本人が今、「150年前の先人たちと同じように、未来は変えられると信じ、行動を起こすことができるかどうか」に、内閣が推進する「新たな国創り」の成否がかかるとの認識です。安倍内閣がすすめようとする「新たな国創り」の祖型を維新期に求める構造が見てとれます。

 そこで、今日は、政府の「明治150年」像を相対化して考えてみましょう。

 例えば、今年5月鹿児島県主催「明治150年記念式典」での秋篠宮は挨拶文で次のように述べました。「今から150年前、新政府は、身分制の廃止、公論の重視などの改革に着手しましたが、このような改革が実行可能であったのは、250年を超える平和な江戸時代に培われた、多様な学問と文化の力が、我が国の社会のすみずみまで豊かに蓄積されていたからだと言えましょう」と。江戸時代をふまえたとらえ方をしています。 

天皇直隷の徴兵制軍隊へ

 次に、「明治150年」を、戦前期における天皇と軍・軍隊の関係から考えてみましょう。

  維新期、兵制のあり方をめぐって大きな問題となりました。つまり、薩長土肥ら雄藩士族(特に薩摩)から成る軍隊で行くか、それとも天皇直隷の徴兵制軍隊にするかです。

 笹山晴生氏が言うには、日本史上、公的武力(天皇の下での軍団・兵士制など公民兵)の時代は、律令国家としての8世紀の奈良時代までと、明治維新期(徴兵制軍隊)しかない、あとは私的武力(武家の私的主従関係下に組織)の時代だったと述べています(『古代国家と軍隊 皇軍と私兵の系譜』中公新書、1975年、今は講談社学術文庫)。

 明治維新から西南戦争(1877年)までの10年間は、農民反乱に鹿児島・佐賀・高知などの士族の反乱が呼応し、混乱していました。それぞれの国家構想と兵制構想がリンクしていました。西郷は、征韓論で下野するまで、参議(最高レベルの政治指導者)であり、かつ近衛都督(最高レベルの軍事指導者)でもありました。政治と軍事、この2つながら管掌した人間が政府に反旗を翻したとき、いかに政府が震撼したか、想像してみて下さい。政府は、260余藩の統一をすすめ、軍事力の統合を図ろうとしたのです。 

統帥権の独立-西郷に対抗しうる明治天皇像

 兵制の構想と関わって、統帥権の独立(参謀本部の独立)の背景を考えてみましょう。

 軍人勅諭(1882年)に先立って、軍人訓誡が1878(明治11)年1012日発布されました。そこでは、忠実・勇敢・服従の軍人精神が謳われ、聖上(天皇陛下)については「御容貌の瑣事たりとも」批評不可、「朝政を是非し、憲法を私議」するも不可とされました。そして、同年(1878年)125日、参謀本部が独立したのです。つまり、軍事予算、軍人の人事行政を司る軍政機関である陸軍省とは別に、天皇に直隷し、作戦計画・軍隊の指揮に任ずる軍令機関である参謀本部が設置されたのです。

 こうした流れは、山県有朋(長州閥)が中心になってすすめられました。参謀本部条例第6条には、「其戦時ニ在テハ、凡テ軍令ニ関スルモノハ親裁」とされたのです。さらに翌18791010日、陸軍職制第1条で「帝国日本ノ陸軍ハ一ニ天皇陛下ニ直隷ス」とされたのです。こうして、公民からなる徴兵制軍隊が組織され、それを天皇に直隷させたのです。政軍2つながらの絶対的指導者であった西郷に対抗しうる明治天皇像が希求されたのです。

「象徴」の意味するもの

 次に、「明治150年」を、敗戦後における天皇の象徴性から考えてみましょう。

 そもそも「象徴」とはどこから出てくるのかという議論があります。GHQ案で天皇の地位をsymbolと表したのですが、新渡戸稲造が1900年『武士道』という本の中で、天皇を「国民的統一の創造者」という言い方をしています。

 1946830日、貴族院本会議において「象徴とは何か」を尋ねた京都大学名誉教授佐々木惣一の質問に対して、金森徳治郎憲法改正担当国務大臣がこう答弁しています。「固(もと)より、国家の統治権の総覧者であると云う意味でもありませぬし、又一般的に用いられて居ります積極的な働きを暗示して居ります所の、元首と云うこととも違って居るのでありまして、(中略)静かなる法律上の地位を、即ち活動力を眼目とせざる所の法律上の地位を、国法の上に明らかにした趣旨」であると。

 三笠宮崇仁は、こんな考え方をしていました。1946113日付意見書で、「天皇は性格、能力、健康、趣味、嗜好、習癖ありとあらゆるものを国民の前にさらけ出して批判の対象にならなければならぬから、実際問題とすれば今まで以上に能力と健康を必要とする」と述べています。これは「象徴」だから「楽」ではなく「大変だ」という考え方でしょう。

 

「天皇の退位等に関する皇室典範特例法」の成立を考える

 20168月現天皇が退位を意思表示しました。これを受けて内閣による有識者会議が持たれる一方、国会においては衆参両院議長が主導する形で各党・各会派の代表による全体会議が開かれ、特例法の制定によって退位を可能とする方向が示されました。

 こうした方向に対して、保守系の有識者は批判的です。例えば、平川祐弘氏(東京大学名誉教授)は、「今の天皇が一生懸命なさったことはまことに有難いが、しかし行動者としての天皇、象徴天皇の能動性を認めることに私はさかしらを感じる」とまで言っています。また八木秀次氏(麗澤大学教授)は、公務ができてこその天皇という考え方は、「存在」より「機能」を重視して天皇を位置づけることとなり、能力主義を生むと批判しています。

 こうした批判は、旧皇室典範制定時の首相だった伊藤博文の判断を思い起こさせます。

 1887320日、伊藤博文や井上毅といった明治政府の幹部が、高輪の伊藤別邸に集まり、皇室典範の内容を検討しました。この時井上毅は、天皇の病気の場合などに備えて、生前退位の可能性を残す必要があると主張していました。しかし、伊藤は、重患の場合には摂政を置けば足りると主張し、「昔時譲位の例なきにあらずと雖も、是れ浮屠氏(ふとし)の流弊より来由するものなり(仏教の悪影響から来るもの)」と切り捨てたのです。この時、伊藤としては、議会に対して内閣・内閣総理大臣を強くしたい時期だったのであり、天皇・皇室に「人心帰一の機軸」としての役割を付与したかったのです。必ず内閣を支持する天皇にする必要があったのです。

 今回、生前退位を認めようとしない意見が根強くある中で、特例法により退位を認めた背景には、やはり国民の意思、世論(輿論)の果たした役割が大きかったといえるでしょう。(文責;辻健司)