4月例会

米軍基地下の京都1945年~1958年

講師 大内照雄さん(近現代史を歩く会)

 4月例会では、昨年7月に『米軍基地下の京都1945年~1958年』(文理閣刊)を出版された大内照雄さんにご講演をお願いしました。この本は、在野の研究者・大内さんがお仕事をしながら8年間にわたって調査・研究・取材を続けてこられたことがらをまとめられた労作です。今年の全国大会の「地域に学ぶ集い」の一つとしてお願いをしましたら快諾していただきましたが、たぶん当日は、京都のメンバーはゆっくりお聞きできないので、4月例会の講演として企画しました。

 

たった70年ほど前の話なのに、京都に住んでいる私たちでさえ知らない話が満載でした。

 以下、ご講演の要旨です。ぜひ著作を読んでいただきたいと思います。

 

    Xバンドレーダー

 京都府の最北端経ヶ岬(京丹後市)に建設された米軍Xバンドレーダー基地の運用が、201412月に開始されました。この基地建設に対しては、反対運動が取り組まれ、「京都で、関西で最初の米軍基地を許すな」というスローガンが掲げられることがありました。

 けれども、京都、あるいは関西に米軍基地が置かれるのはこれが「最初」ではありません。1945年日本の敗戦後、連合国軍による占領が始まると、日本各地に米軍をはじめとする外国軍の基地が建設されました。

 

   ここにも米軍住宅

 米軍の京都進駐は、1945925日~29日の5日間に、7000名~8000名の米兵がやってきたことに始まります。ただちに米軍による建物の接収が始まり、府庁文書によれば186カ所の建物が接収されました。また1949年に進駐軍が発行した『CITY MAP OF KYOTO』(歴彩館所蔵)という地図には、京都市を中心とした62カ所の米軍基地や施設が赤色で表示されています(右図)。このクローバーハウスの近くでいえば、旧下村邸もそうです(烏丸丸太町、1932年当時の大丸社長であった下村正太郎氏の自宅として建てられた洋風建築)。それにこの同志社大学今出川キャンパス内の図書館がある場所には、明治初期から1972年まで華族会館という建物があって、そこも米軍に接収されました(米軍の家族用アパートとして改装された)。

 

  四条烏丸に司令部

 そして京都には、連合国軍最高司令部(東京)のもと、第六軍司令部(主として西日本及び朝鮮占領を担当)が1945925日に置かれました(翌年1月からは第一軍団司令部となる)。場所は四条烏丸の大建ビル(右写真、いまはCOCON KARASUMA)。1938年に丸紅商店京都支店として建てられ、地下1階地上7階の当時としては巨大な建築物であった。接収中は屋上に星条旗がかかげられ、五条坂近辺からも見えたといいます。

 

 

下村邸(烏丸今出川)も接収された
下村邸(烏丸今出川)も接収された

   工事は府、費用は政府

 こうして「基地の街」となっていく京都の姿を見ていきましょう。

 米軍による接収は、企業や国・府・市の所有するものだけではありませんでした。米軍高級将校の家族用住宅として、個人の住宅が対象になりました。特に岡崎周辺にある財界人の別邸や大邸宅がねらわれ、畳を板張りに、天井や壁にペンキが塗られ、洋風に改装された。またガス給湯・暖房施設、洋式水洗トイレ、シャワーの設置なども行われました。これらの工事は府が担当し、費用は政府が出しました。その他、下鴨、北白川、今熊野、山科安朱なども個人住宅の接収が多かった地域です。

   京都御苑はダメ

 一方で、政府や京都府が何としても占領から守ろうとした場所があました。府庁文書によれば、京都御苑や修学院離宮、天皇陵や石清水八幡宮など48カ所を立ち入り禁止にしました。それでも京都御苑は、たびたび接収の候補地になっていました。進駐直後には飛行場としての接収が持ち上がり、実際に着陸テストも行われたようですが、樹木が多く飛行場には向かなかったらしく、代わりに二条城の東側堀川沿いが接収されました。

 ところが19467月になると、第一軍団司令部は米軍住宅として京都御苑約9万坪の接収を通告してきたのです(御苑の半分の面積)。個人住宅の接収とは対照的に、政府や府は全力をあげて御苑の接収に抵抗します。

 

     身代わりは植物園

 そこで代替地としてあがったのが京都植物園です。植物園は1924年に開園し、総面積27万㎡(約82000坪、御苑より少し小さいくらい)。樹木の7割が伐採され、108棟の下士官用住宅が建設されました。戦争孤児たちが京都駅周辺にあふれていた頃、御苑の身代わりになった植物園にはちょっとしたアメリカンタウンが出現していたのです(その後195712月に府に全面返還された)。

 

   米軍による事件・事故が続出

 京都が「基地の街」となると、米軍による事件・事故が続出します。

 米軍による被害を府庁文書「進駐軍事故見舞金支払行為負担書」で調べると、223件の事件・事故が記録されています。このうち最も多いのが交通事故で172件(うち57件が死亡事故)。ついで進駐軍の活動にともなう被害が30件。兵士による犯罪が21件で、うち3件が殺人事件です。殺人事件の一つは、19451211の夕刻伏見区で23歳の青年が米兵2名に襲われ殺害された事件で、当時日本には進駐軍兵士を逮捕し裁く権利がなく、被害者家族は泣き寝入りするしかなかったのです。

 

   密約文書

 1953929日になってようやく日米行政協定第17条が改訂され、公務中などを除いて日本側に裁判権が移されたのですが、問題はこの改訂の裏で密約文書が交わされていて、第一次裁判権の不行使を求めるアメリカ側の要求を受け入れてしまっているのです。その結果、195412月から5511月までの日本側に裁判権のある米兵犯罪に対する日本の裁判権放棄率は、95.2%という驚くべき数字を示しています。

 

   「慰安」施設の設置

 「基地の街」化は、「慰安」施設の設置という問題も伴いました。

 早くも1945818日、内務省は「外国軍駐屯地に於る慰安施設について」という通達を発し、各地に進駐軍「慰安」施設の設置を指示したのです。

 これを受けて京都府は、キャバレー6カ所、酒場4カ所を設置し、府下の「貸座敷」を「慰安所」に指定しました。このような「慰安」施設の経営は民間業者が行ったが、施設の設置やその監督などにあたったのは府であり、これを担当したのは警察部であった。「慰安」施設のための物資を調達したのも府であった。

 こうして19451020日現在、京都市内で「芸妓250名、娼妓1100名、ダンサー400名」が「慰安婦」として動員されました。日本軍「慰安」制度が引き継がれた側面もあるものの、米軍の性暴力から日本の婦女子を守るためにとして、占領軍「慰安」施設は正当化されていきます。

 

     性病拡大

 ところが、こうした「慰安」施設によって米兵の間に性病が拡大し、大きな問題になっていきます。対処に迫られたGHQは、463月に入ると、罹病率の高い「慰安」施設には米兵の出入りを禁止するオフ・リミットを実施したのです。

 つまり米軍の進駐のために多くの女性たちを「慰安婦」として動員していった日本政府や京都府は、オフ・リミットという米軍の性対策の転換の中で、一転して彼女たちを切り捨てていったのです。この結果、「パンパン」や「闇の女」、「夜の女」などと呼ばれ、基地の周辺や繁華街などで米兵を相手に売春をする街娼が急増することになるのです。

さらに、街娼の女性たちへは、検診のために「狩り込み」と呼ばれた強制的な身柄の拘束も行われたのです。検診の結果、治療となるとその費用は自己負担とされ、強制入院は彼女たちの生活をいっそう困窮におとしいれ、より深く米兵相手の売春に縛り付けられていったのです。

 

 

【証言】山本喜美さんの証言から(立命館大鈴木ゼミ編『占領下の京都』より)

 

同年代の人が生活のためにパンパンやってはって、わたしらはモンペ、彼女らはスカートだったでしょ。親は“彼女たちが操を売っているから、お前たちが安全なんだよ”っていいますよね。…複雑な気持ちで彼女らを見ていました。

 

 

 


   朝鮮戦争を支えた京都の米軍基地

 1950625日朝鮮民主主義人民共和国人民軍が38度線をこえ南進を開始しました。朝鮮戦争です。アメリカは強大な軍事力をもって介入します。地上軍の派兵だけでも、開戦から数ヶ月後には36万人へと膨れあがりました。この介入は「国連軍」を名乗って行われましたが、国連憲章に定められた手続きを経たものではなく、実態は米韓を中心とする多国籍軍に他なりませんでした。

 朝鮮戦争が勃発すると、各地に駐留していた在日米軍は次々と朝鮮半島に派兵されていきました。出撃港までの輸送には、主に国鉄が使われました。京都に駐留していた第25師団も、梅小路駅から連日輸送されました。大建ビルに置かれていた第一軍団司令部も、アメリカ本国で再編成された後に釜山へと移され、参戦していきました。

 

⑫  ノグンリ(老斤里)での住民虐殺事件

 開戦後ひと月ほどした50726日、ノグンリ(老斤里)という⑫忠清北道永同群にある小村を襲った米軍(第1騎兵師団第7連隊-この後第一軍団に編成される)は、住民150名(行方不明者は13名)を虐殺する事件を引き起こしていたのです。この事件は、盧武鉉(ノ・ムヒョン)政権による調査で判明し、当時米軍は住民とゲリラ(南朝鮮労働党)との区別がつかず、虐殺に及んだということです。

 

   兵站(へいたん)基地となった京都の米軍基地

 京都にあった米軍基地は朝鮮への出撃拠点としてばかりではなく、後方支援地としての役割も果たしていきます。

 朝鮮戦争には、京都南部・精華町の祝園(ほうその)弾薬庫と舞鶴の弾薬庫から、銃弾や弾薬が補給されたのです。これらの弾薬庫は、旧日本軍軍事施設が進駐軍に引き継がれたものでした。

 当然、祝園や舞鶴の弾薬庫から供給された弾薬類は、朝鮮半島の人々に大きな被害をもたらしました。米極東空軍の戦争中の航空攻撃は、主として15の日本の空軍基地から行われました。そして朝鮮への米軍機の出撃回数は、空軍が約73万回、海兵隊が約11万回、海軍が48万回。その爆弾投下量は空軍476000トン、海兵隊と海軍が22万トンに達したといいます。

 

   キャンプ・フィッシャーとホテル・ラクヨウ

 激戦をたたかう米軍兵士を休養させるための施設が必要だと、京都では伏見の旧日本陸軍歩兵第九連隊跡に置かれていたキャンプ・フィッシャーと京都駅前のホテル・ラクヨウ(現在の関西電力京都ビル)がその休養施設とされました。米軍公式のRR(リターンズ・レクレーション)センターです。

 そうすると、その地域ではどんなことがおこったでしょうか。昨日まで最前線で戦争をしていた兵士が突然街にやってくるのです。タクシー強盗や女性への暴力など兵士による犯罪が頻発し、大きな社会問題になります。

 1952127日『都新聞』は、帰休兵たちの様子を「朝鮮から休暇で帰ってくる兵隊は遊ぶ施設もない前線から20万円近い金をもってやってくる。日本にいる期間は7日~10日というから飲んで食って女と遊ぶことになる」と報じています。またキャンプ・フィッシャーの置かれた藤ノ森周辺は「昭和27年から翌28年にかけての伏見藤ノ森かいわいはポン引きとパンパンの街といってよいほどで」「伏見署が扱った米兵の暴行事件が同管内で発生する暴力事件の大半を占める有様だった」とも報じられています(『都新聞』1955520日)。

 

   アメリカのねらい

 朝鮮戦争のさなか、19519月サンフランシスコ講和条約が締結され、同日に日米安保条約も締結されました。

 日本との交渉に当たったアメリカ国務省政策顧問であったダレスが、日本との交渉に先立ち、1951126日に最初のスタッフ会議で「われわれが望むだけの軍隊を、望む場所に、望む期間だけ駐留させる権利を確保する、それが米国の目標である」と述べたように、占領下での米軍基地は存続され、引き続き日本は米軍の前線基地として維持されることになります。

 1952726日に外務省が発表した在日米軍への提供施設・区域は、「無期限使用」とされたところが17カ所(植物園住宅、大久保地区、キャンプ・フィッシャー、祝園や舞鶴の弾薬庫など)。「一時使用」-米軍側が返還に同意しているが移転先がないために返還されていないところが19カ所。

 

   再軍備と日本軍の復活

 1957年、日本政府は、陸軍と海兵隊の米軍地上部隊を58年中に日本「本土」から撤退させるという共同声明を発表しました。米地上軍は582月までに撤退し、「本土」には空軍と海軍、陸軍の後方支援部隊と海兵隊の航空部隊の一部が残されました。しかし、それは自衛隊の増強と引き換えであり、多くの米軍基地は自衛隊へと引き継がれていきました。また、アメリカ軍政下の沖縄では、50年代を通して、米軍基地は1.7倍に拡張されたのです。

 朝鮮戦争勃発から4ヶ月後の501030日には、合計3250人の旧軍人の公職追放が解除され、中堅幹部不足を補うために、政府はそのうちの3056名に募集要項を発送しました。翌年4月から警察予備隊への入隊がはじまりましたが、解除者567名が応募し、うち300名が採用されました。結局、50年代半ばになると、旧陸軍将校は、陸上自衛隊の上級幹部の半分以上を占めることになったのです。京都においても、508月の警察予備隊の第1回合格者140名のうち、元日本軍軍人が半数を占めているのです。

 

   中学校のグランドに武装米兵が侵入

 近鉄京都線・大久保駅の西側に広がる自衛隊大久保駐屯地には、朝鮮戦争の休戦直後に第三海兵師団の部隊が移駐し、軍拘置所や飛行機滑走路が建設されていきました。この大久保キャンプ周辺の地域も、米兵の引き起こす犯罪など多くの基地被害に苦しめられることになりました。大久保キャンプに三方を囲まれた久世中学校(現在の西宇治中学校)は、さまざまな被害に苦しめられました。

 

【当時の中学生の証言】

 校庭の草むしりの最中、突然パン、パン、パンと云う音がする。音の方を振り向いてみると、米軍(進駐軍)が自動小銃でトンビを撃っているのだった。私達のすぐ近くで…。

 

 そしてとんでもない事件がおこったのです。1953831日カービン銃で武装した海兵隊四個小隊の120名が久世中学校東側の垣根を越えて侵入し、一時間半にわたって校庭で訓練を行うという信じられない事件です。幸いにも、夏休み期間中であったため、生徒は登校していなかったものの、宿直の教諭は問題がこじれるのを恐れ、教頭に電話で報告することしかできなかったといいます。

 また騒音による被害も深刻で、授業もまともにできないような状態だったといいます。米軍ヘリコプターの発着地点が教室からわずか80メートルしか離れておらず、20分間隔で飛来するたびに教室の窓ガラスがびりびりふるえ、先生の声がかき消されたのです。

そしてとんでもない事件がおこったのです。1953831日カービン銃で武装した海兵隊四個小隊の120名が久世中学校東側の垣根を越えて侵入し、一時間半にわたって校庭で訓練を行うという信じられない事件です。幸いにも、夏休み期間中であったため、生徒は登校していなかったものの、宿直の教諭は問題がこじれるのを恐れ、教頭に電話で報告することしかできなかったといいます。

 また騒音による被害も深刻で、授業もまともにできないような状態だったといいます。米軍ヘリコプターの発着地点が教室からわずか80メートルしか離れておらず、20分間隔で飛来するたびに教室の窓ガラスがびりびりふるえ、先生の声がかき消されたのです。

 そして1954220日夕刻、大久保駅近くの雑木林で10歳の女の子が大久保キャンプに所属する20歳の米兵に強姦されるという事件がありました。このほかにも米兵による性犯罪はあとをたたなかったのです。

 

   派兵された舞鶴の海上保安庁

 時間の関係でご講演のなかでは触れられませんでしたが、朝鮮戦争時の重大な問題についてご本より紹介しておきます。

 実は朝鮮戦争が勃発すると、海上保安庁が「国連軍」の一員として秘密裏に参戦していたというのです。これは、朝鮮半島の周辺海域に敷設されたソ連製の機雷を掃海するために、マッカーサーによる命令のもとに行われた作戦です。195010月から2ヶ月間朝鮮各海域で行われていたのですが、元山沖で活動していた一艇が触雷し沈没し、21歳の中谷坂太郎さんという青年が命を落としていたのです。中谷さんの実家には、通訳を連れた米軍将校が訪れ、「国際問題になりかねない」と特別掃海隊の活動を公にしないことを求めたといいます。坂太郎さんは瀬戸内海で殉死したことにされ、多額の弔慰金が支払われたのです。新憲法施行3年後のことです。参戦だけでも大問題なのに、「戦死者」まで出していたとは。

 

(文責;辻健司)

 

 《参加者の感想》

 ◆進駐軍がジープに乗ってやってきて、群がる子どもたちに笑顔でチョコレートやガムをまいているという映像から受けるイメージしか知らなかったらどうなるか。「日本の平和は日米安保のおかげ」「アメリカ軍の抑止力が効いているよね」「基地はもっぱら沖縄に置いておいたらいいよね」-そんなふうに考えている人は多い。京都府内各地に米軍基地があったのはたった70年前。大内さんの研究や講演は、軍事基地がそばにあるということがどれだけ危険なことかをきわめて具体的に語る。歴史、とりわけ地域の歴史に学ばないことの怖さをあらためて痛感しました。

 

 《参加者の感想》

◆「京都は空襲はなかった」→嘘。馬町や西陣等、やられてます(アメリカが文化財を考慮して避けたなんてどこから来た噂?)「京都が比較的穏やかに米軍を受け入れたのは、米軍が紳士的だったから」→そういう人もいたかもしれないが、沖縄に匹敵するくらい酷い事件や暴行が数えきれないほどあり、多くの人が泣き寝入りした実態あり。だから、「京丹後にXバンドレーダーが配備されるまで基地とは無縁だった京都」→大嘘。

 歴彩館や国会図書館の資料を駆使した力作の大内照雄さんの『米軍基地下の京都 19451958』(文理閣 2017)ぜひ、読んで欲しい。今年8月の歴教協全国大会@京都で「地域にまなぶ集い」の1テーマとなっています。どうぞ全国の皆様、京都の魅力的な現地見学も併せて、ぜひいらして欲しい!!

 


 《大内さんのコメント》

 昨年の七月に『米軍基地下の京都 1945年~1968年』を出版することができました。これを辻先生がお目を留めてくださり、今回このような機会を与えていただきました。


 日本帝国主義がアジアへの侵略戦争に敗北したことにより、1945年から京都も連合国軍-京都の場合は米軍-の占領下の置かれることになります。京都には西日本の司令部が駐留し、多くの米軍基地・施設が置かれました。京都府立植物園(米軍家族住宅として)、左京区の岡崎一帯(兵舎や軍病院として)、二条城東側の駐車場(飛行場として)など、今日、観光客でにぎわう場所も米軍に接収されていきました。また、今回、例会が行われた同志社大学内のクローバー・ハウスにあった華族会館もそのひとつでした。
 米軍の駐留は、家屋の接収、米軍の引き起こす事件や事故、「慰安婦」としての下層女性の動員など、京都に暮らす人々に大きな影響を与えます。1950年に朝鮮戦争がはじまると、京都の米軍基地も出撃・後方支援の役割を果たし、基地の置かれた地域は戦争と直結することとなります。
 朝鮮戦争を接着剤にして、米軍基地は1952年の日本の独立後も日米安保体制の下で置かれ続けます。1945年から58年の13年間、京都に米軍基地の置かれた時代は、決して過去のことではないと考えています。しかし、京都にあった米軍基地は、沖縄へ移設されていき、また自衛隊へと置きかえられていきました。このような中で、京都に暮らす多くの人々には、日米安保体制は目に見えないものとなりました。
日米安保体制の矛盾が押し付けられた沖縄や京丹後市での米軍Xバンドレーダー基地建設など、現在とつながるものとして1945年から58年の13年間の京都の戦後史を見ていきたい-今回の報告の問題意識はここにありました。
しかし、報告者の力量不足のため、この問題意識が上手に提起することができたのか甚だ心もとないものとなり、ご迷惑をおかけしてしまったかもしれません。他方で、当時を知る方や平和・人権の立場から京都の戦後史を研究されている方にお教えいただく機会ともなり、報告者にとってはとても意味のある時間となりました。
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月の歴教協会・京都大会では、少しでもお役にたてることができる報告ができればと考えています。