2019年2月例会

インパール平和ツアー報告   奥村英継さん

(戦争遺跡に平和を学ぶ京都の会代表)

 2月例会は、16日(土)に同志社大学クローバーハウスで行われ9名の参加でした。戦争遺跡に平和を学ぶ京都の会の4回目のツアーの今回は、11名が参加され、そのうち4名が京都歴教協の会員でした。

 

 そもそもインパール作戦(インパールさくせん、日本側作戦名:ウ号作戦(ウごうさくせん))とは、1944年(昭和19年)3月に[3]日本陸軍により開始され7月初旬まで継続された、援蒋ルートの遮断を戦略目的としてインド北東部の都市インパール攻略を目指した作戦のことである。作戦に参加した殆どの日本兵が死亡したため、現在では史上最悪の作戦と呼ばれる。

 当初より内部でも慎重な意見があったものの、牟田口廉也中将の強硬な主張により作戦は決行された。補給線を軽視した杜撰(ずさん)な作戦により、多くの犠牲を出して歴史的敗北を喫し、無謀な作戦の代名詞として現代でもしばしば引用される。

 ウィキペディア(Wikipedia)より

 

 インパール作戦の戦跡を回る今回のツアーとして、インパール、サンジャック、ウクルル、コヒマ、ディマプールを回られました。大変な急坂の悪路を四輪駆動車4台に分乗しての強行軍だったようです。

 

 アジア太平洋戦争で最も無謀と言われたインパール作戦は、太平洋戦線で悪化した戦局の打開のため実施されました。インドにあるイギリス軍の拠点インパールを、雨季を避けて3週間でビルマ側から川幅600mの大河や2000m級の山を越えて攻略するという計画でした。ビルマ方面軍第15軍の第15師団、第31師団、第33師団を中心に約8万5千の将兵とインド国民軍6千も加わった兵力でビルマから攻撃しましたが、作戦は長引きおよそ3万人が命を落とし失敗に終わりました。戦死者の6割が作戦中止後に命を落とし、撤退路は次々と倒れた兵士の死体が積み重なり「白骨街道」と呼ばれたそうです。奥村さんは、この白骨街道にも行きたかったようですがここへ行くツアーのコースは設定できなかったそうです。

 

 今月の例会には、奥村さんの他にツアーに参加された森川敬子さん、田中仁さんも参加されました。日本軍の戦闘と被害、行ってみなければ分からないような現地の様子などたいへん詳しく報告して頂き、興味深く報告を聞くことができました。