2018年度研究大会・総会

テーマ 「洛北の歴史を訪ねる」

日時  2019年3月23日(土)13:00~3月24日(日)13:00

場所  集合 三千院      宿泊 大原山荘

 大原(おおはら)は、京都市左京区の東北部に位置し、高野川の上流になります。高野川に沿って若狭街道(いわゆる鯖街道)が通っています。かつては、8つの村から成り立っていて「大原郷」と称していました。比叡山の北西麓にあることから、延暦寺の影響が強く、勝林院・来迎院・三千院・寂光院など天台宗系の寺院があります。

 

大原はまた、戦乱や政争による京都からの脱出地として、出家や隠遁の里として知られていました。惟喬親王や建礼門院、西行や鴨長明など、洛北の風景のなかですごしました。

講演「大原の歴史-勝林院の再建について-」

上田寿一さん(里づくり協会副会長)

地域の歴史を調べています。

大原といえば「大原女(おはらめ)」といいますが、下の左の絵を見て下さい。

の絵は、安藤広重作の「京三條橋」に描かれた大原女です。いまの大原女(下の右の絵)とどこが違うでしょうか。

前掛けをしていませんね。前掛けは、大正から昭和にかけてするようになったのです。頭の上にあるのは、柴ですが、量が多く、ひもをかけてバランスをとっています。大原女とすれ違うように描かれている人物が何かを持っていますが、何でしょうか。竹箒のように見えますが、違いますよ。そうです、茶筅(ちゃせん)です。茶筅売りを描いているのです。

の絵は、拾遺都名所図会(天明7年、1787年刊行)にある一部ですが、手前に流れているのが鴨川です。そこに橋がかかっています。それが今出川橋です。いまとずいぶん違いますね。中州を利用して、低い橋を架けています。途中の橋には天秤棒を担ぐ人がいますし、橋の向こうには柴を京へ売りに人が描かれています。売りに行って、帰りには尿をもらって帰るというやり取りがあったのです。その後ろに柳の木が描いてあり、すぐそばに「柳辻」と書いてあります。いまの出町柳ですね。そして画面左の端に「八瀬大原」と書いてあります。

次に江戸時代の古文書を読んでみましょう。これは、寛政61794)年大原周辺の12ヵ村が奉行所に訴えた訴状です。何を訴えたのかというと、さきほどの今出川橋に関係する訴状なのです。この橋は、若狭街道(いわゆる鯖街道)の終着点に架かり、洛北の人々がその産物を都に売りに行き、必要な物資や糞尿(肥料)を都カから運ぶために使う、大変重要な橋でした。それまでは、若狭街道沿いの12村が共同で維持をしていたのですが、後には、橋の西岸の田中村に管理をまかせ、12ヶ村は田中村に通行料を払う形になりました(12ヶ村は、一乗寺、修学院、松ヶ崎、高野、花園、長 谷、中、八瀬、大原、小出石、伊香立、途中です)

ところが、この年、田中村は、諸費用の高騰を理由に、通行料の一挙倍の値上げを要求したのです。これに対し、12ヶ村は1割値上げで交渉しますが、話が着かず、奉行所へ訴え出ます。翌年8月、奉行所の指導で和解が図られ、2割値上げで決着したという話です。江戸時代には一つ一つの橋が、たいへん重要な 役割を担っていたことが分かります。

の図は、「修学院行幸御道絵巻」の一部です。橋の上を修学院離宮へ向かっていますが、この橋が今出川橋です。「御仮橋」とされていて、天皇用にその日だけ作られた橋ですが、初めに見た今出川橋と比べたらずいぶん立派です。欄干もついています。この橋は、洪水のときに流されて下流の三条大橋などを損傷させてはいけないので、行幸が済んだら取り壊されます。

大原にある有名なお寺の一つに、勝林院(左写真)があります。

江戸時代の初め、徳川家光の頃に春日局の願いによって、お江の方、崇源院の菩提のために本堂が再建されたのです。ところが1736(享保21)年正月に火災があり、本堂が焼失します。そこで1778(安永7)年に再建されていますが、この時の資金を富くじでまかなったことがわかっています。

勝林院の屋根の「こけら」を2枚持ってきました。檜(ひのき)の薄い板です。さわってみて下さい。古い方がざらざらしています。割って板にしたので、表面に年輪の筋が残るのです。そうすると降った雨が流れやすく、また乾きやすいのです。つるっとした手触りの方がノコギリで切ったもので、表面に凹凸がなく、乾きにくく腐りやすいのです。

 

地域の歴史を学んでいると、過去を知って前へ進むことが大事、知らずに進むのとはちがうということがわかってきます。資料から読み取れることを組み立てることが面白いなと感じています。

報告「一人修学旅行 今、辺野古は…」

梶原秀明さん(福知山市立成和中学校)

下見や事前学習までしていたにもかかわらず、定年退職のために2年まで担任していた生徒と一緒に修学旅行に行けなかったので、今回「ひとり修学旅行」と銘打って出かけました。

今年121日に出発し、24日に帰って来ました。

22日には辺野古で座り込みに参加しました。一昨年の歴教協大会の時、機動隊に引っこ抜かれながらも座り込みをしている姿を見て、参加せずに見ているだけの自分に後ろめたさを感じていたからです。キャンプシュワブ前のテント前で簡単な集会が開かれました。議長の山城博治さんが情勢報告をされ、参加者それぞれの発言があったり、沖縄民謡があったりして、和やかな集会でした。私は福知山から持参した激励旗をわたし、Xバンドレーダーや福知山の射撃場の米軍使用の実態などを報告しました。

実際に座り込み、機動隊に4人がかりで引っこ抜かれる経験をして感じたことは、彼らに全く使命感らしきものを感じなかったことです。全く無表情で事務的。ALSOKの警備員も数十人、ゲートの前に立っていました。何十台というトラックが土砂を搬入していく様子を見て、毎日途方もない税金が投入されていることが痛感されました。

23日は渡嘉敷島へ行きました。

かつて知事を務めた太田昌秀さんが1980年に『戦争と子ども』という本を書かれていました。私はこの本の「渡嘉敷島の集団自決」の証言にたいへんな衝撃を受け、沖縄戦の学習では必ず資料として使ってきました。ですから、300人を超える人たちが集団自決したというこの場所に一度行ってみたかったのです。

 渡嘉敷島へは沖縄島からフェリーで1時間ほどで着きます。

50ccのバイクを借りてフェリーに積んでいきました。役場で地図をもらい、目的地に向かいました。思った以上に高い山の上にありました(標高200m)。碑は平成5年に建てられていました。少し谷に下りることができました。沢のせせらぎが聞こえる静かな谷あいでした。こんなところであんな凄惨な出来事が起こったなんて信じられない静かな森でした。

阿波連でソーキそばを食べながら、店の人に戦跡を訪ねてきたと言ったら、それならぜひここに行って見なさいと、徴用されて犠牲になったコリアンの慰霊碑を紹介してくれました。通行の少ない道路の脇に記念碑や様々な建造物が建っていました。寄付を募ると1500万円集まったそうです。

 

24日は、南部戦跡で行ったことのないところを回りました。

携帯の地図情報をたよりにひめゆり部隊最後の地、荒磯海岸にも立ち寄ることができました。舗装されていないでこぼこ道は、50ccのバイクにはつらかったです。荒磯海岸一帯は突起状の岩場が続いており、スニーカーで歩いていても歩きにくいのに、まともな履物もなかった彼女たちは、おそらく足が血まみれになりながら逃げ惑ったのだろうと思います。今は、多くのサーファーが波乗りを楽しんでいます。

このあと、那覇に戻って昼食をとっていたら、スマホに「予定していた便が欠航」の連絡。空港で、名古屋行きの便に切り替え、何とかその日のうちに帰ることができました。ちなみに、費用は格安でした。航空チケットは往復で11340円、宿泊費は朝食付きで一泊4500円。バイクレンタルは二日で3320円にガソリン代500円。

2日目は、お楽しみフィールドワーク!

ガイド 早川幸生さん

9:30出発 圓光寺・サイドオマール墓碑→渡辺家(一乗寺代官)→田辺家(鷲尾大納言家来・雲母(きらら)漬物創業者)→一乗寺下り松(宮本武蔵と吉岡一門の決闘)→金福寺(与謝蕪村・村山たか女)→本願寺北山別院(聖水)→八大神社(宮本武蔵ゆかりの地) 昼食

オマールさんの墓

 圓光寺(えんこうじ)は、臨済宗南禅寺派のお寺です。

圓光寺の墓地には、イスラム式の墓があります。オマールさんの墓です。

圓光寺の建てた立て札の説明文より

《大東亜戦争が酣(たけなわ)の、昭和186月、当時東條英機軍事内閣の要請で、南方特別留学生の一人としてサイド・オマールは来日した。彼は、大東亜共栄圏の同盟国であるマレーシア・ジョホール州の出身で、祖父はジョホール州の首相をつとめ、その一族は政治、経済、教育の分野で名をなしていた。恵まれた環境に生まれたオマール自身も、優れた資質を備え、人々の期待を担っていた。

オマールは広島大学在学中の八月六日、原子爆弾に被爆した。彼自身も重傷だったのに大八車で広島市民の重い被爆者の救護にあたった。

米軍司令部の命により、オマールは京都まで来たが症状が重く京大病院に運ばれたが、既に末期症状であった。

昭和二十年九月三日、京都を終焉の地として、オマールは十八歳の生涯を閉じた。

東條内閣に依り、来日した留学生は、昭和十八年に来日した一期生と昭和十九年の二期生だけを南方特別留学生という。 圓光寺》

また次のように説明する立て札もあります。

《墓地建立の経過

 被爆後、東京に戻る途中京都で下車、京大病院に入院するも手当の甲斐なく一週間後に死亡、当時の市営墓地であった南禅寺、大日山で埋葬された。事情を知った八瀬平八茶屋の主人が弟の故園部健吉に墓の建立を依頼、遺族の許可を得て昭和36年の彼の命日の93日にイスラム教式の墓碑を善意ある市民の協力のもとで建立された。故 園部健吉》

村山たかって誰?

村山たか(18091876年)は、NHK大河ドラマの第一作の原作となった舟山聖一著『花の生涯』のヒロインです。たいへん数奇な運命を歩みました。

近江国犬上郡多賀のお寺に生まれ、生後すぐ寺侍村山氏に預けられ、18歳のときに当時の藩主・井伊直亮(なおあき、直弼の兄)の侍女になりました。20歳になり京都に上って、祇園で芸妓となります。そこで男子をもうけたのを機に、その子とともに彦根にもどりました。そして井伊直弼と出会い情交を結び、またその数年後に直弼を通じて出会った長野主膳(ながのしゅぜん)とも深い関係になったとされます。

やがて直弼が大老になり、江戸に移った後別れたとされるが、安政の大獄の際には京都にいる反幕府勢力の情報を江戸に送り、大獄に加担したといわれます。1860(安政7)年桜田門外の変で直弼が暗殺された後、1862(文久2)年に尊王攘夷派に捕らえられ、三条河原に三日三晩晒されたが、女性ということで殺害を免れたものの、息子の多田帯刀(ただたてわき)は母親のかわりに殺されました。

その後、洛外一乗寺の金福寺で出家し妙寿尼と名乗り、1876(明治9)年に亡くなりました。墓は、金福寺の本寺である圓光寺にあります。たかと井伊直弼の具体的な関係は不明でしたが、2011年直弼がたかへ宛てた手紙が発見されました。手紙は直弼が20歳代後半に書かれたものと思われ、藩の反対でたかと会えなくなったつらい心情が綴られているとのことです。

一乗寺下り松

平安時代から室町時代にかけて、このあたりに天台宗の寺があったのですが、南北朝の動乱期に廃絶しました。この寺の名前が一乗寺という地名の由来です。ここにあった松の下で、江戸初期の剣客宮本武蔵が吉岡一門数十人と決闘したという伝説が残っている地でもあります。「下り松」と呼ばれ、旅人の目印として植え継がれてきたこの松は、現在4代目だそうです。

 

田辺家と雲母漬

一乗寺保勝会の説明文は、田辺家と雲母漬(きららづけ)のゆえんを次のように記しています。

 《田辺家は代々鷲尾大納言家に仕えた家柄である。元禄二年鷲尾家よりここに七百八十坪の土地を賜って居を定め、勤仕のかたわら比叡山を雲母坂を上下する僧俗のため茶店を設けた。今この家の名物である雲母漬を当時田辺治助の創意になって風雅の士に愛好され、爾来三百年その風味はひろく世間に宣伝されている。》

小さな丸いなすびの雲母漬を賞味しました。甘みのある味噌漬で、上品な味がしました。