4月特別企画 疏水を学び、歩く

快晴!41名も参加!FW楽しかった!

深い学習には深い教材研究

 小学校で学習する琵琶湖疏水は、中・高校生にとっても日本の近代化を考えるうえで重要な地域教材です。疏水の歴史、構造、さまざまなエピソードを学び、フイールドワークしてみたい。きっと子どもたちがワクワクする授業づくりにチカラとなります。

 そう、深い学習のためには、深い教材研究が欠かせません。そんな思いで、企画しました。会員ではない先生や学生のみなさんの参加も大歓迎!と呼びかけたら、なんと学生さんから高齢者まで41名もの参加者!初夏を思わせる風と日差しのなか、京都の水、琵琶湖疏水を堪能するフィールドワークの始まり始まり!

講師&ガイドは板東利博さん 疏水の達人!

 講師は、板東利博さん(元小学校教員)。朝鮮戦争勃発の翌日、1950626日、夷川(えびすがわ)ダムの南で出生。小中学生時代は琵琶湖疏水が遊び場。疏水にかかる俗称赤橋(美術館南の慶流橋)、冷泉橋、徳政橋の欄干から飛びこんで泳ぎまくっていたとのこと。

 山科・醍醐の学校に勤めているときに疏水から引水している用水路を探索。退職後さらに調べて歩いています。北醍醐小学校へは5年間「小関越え」と「洛東用水路学習」のゲストティーチャーをつとめておられます。今回の企画のために、こってりとした下見や手作りの資料やパワーポイントの作成など、ものすごい熱意で取り組んでいただきました。

琵琶湖疏水とは?

 京都教育文化センターで、板東さんから、琵琶湖疏水の概要と今日のコースの見どころを説明していただき、FWへ出発。

 そもそも琵琶湖疏水は、まず第3代知事・北垣国道のもと、精緻な測量をし、琵琶湖の水をポンプを使わず人工的に緩やかな傾斜をつけ、1890(明治23)年に完成させました。これが第1疏水で、全長が19.9㎞。この完成に合わせて、蹴上発電所が建設されました(電気事業)。また、運河を開き、大津や伏見、大阪との間で米・炭・木材・石材などが船で運搬されるとともに、人を乗せた船も行き交いました。精米や紡績などにも利用されたほか、東本願寺や京都御所の防火用水としても使われたのです。さらに、南禅寺界隈の別荘の庭園用水としても利用されています。

 ところが、明治30年代に入ると、電力の需要が満たせなくなる一方、市民の飲料水が質量とも問題になってきました。そこで第2代京都市長西郷菊次郎(せごどんの長男)は、三大事業(第2疏水の建設と上水道の整備、道路拡張、電気軌道の敷設)に着手したのです。第2疏水は1912(明治45)年に完成し、京都市の水道事業が大きく前進したのです。全長が7.4㎞で、ほとんどが暗渠(あんきょ)になっています。

 上の写真は、菊次郎の家族写真。後列中央で子どもを抱いているのが菊次郎です。

いまも現役の水力発電所!無人だけど…

 夷川発電所です。これは第2疏水計画と同じ時に建設されました。落差3メートルの水力を使った発電所で、普段は無人ですがいまも現役で稼働しています。関西電力の発電所で、現在の出力は300KWです。すぐそばに、北垣国道像が立っていますが、これは2代目です。初代はどうしたのか?戦争中の金属供出で、持っていかれたのです。

夷川ダムの船溜で子どもたちが泳いでいた!

 夷川ダムの船溜まりです。ここは、京都の代表的なスイミング・スクールである踏水会の水泳場として使われていました。

 1968(昭和43)年にこの北側に温水プールが作られたので、ここで泳ぐ子どもはいなくなりました。「なんで踏水会というのでしょうか?明治時代に大日本武徳会の競泳部がつくられ、古式泳法として立ち泳ぎを教えたのです。立ち泳ぎは、水を踏むように泳ぎますよね」-「なるほど!」とみなさん、納得!

 またこの周辺では、大正から昭和にかけて、水力を使って紡績や製粉、伸銅などの工場があり、今とはずいぶん様子がちがっていました。疏水を掘ったときの土を両側に積んだ形跡が今も残って、疏水の南北に傾斜がついていることに、板東さんのガイドを聞いてみなさん「なるほど!」でした。

 右は、第一絹糸紡績株式会社の工場。1908(明治41)年撮影。いまの夷川船泊の北側にありました。

疏水は身投げの名所?

  疏水の流れをさかのぼるように、岡崎に入ってきました。かつては、身投げの名所と言われたこともあったとのこと。菊池寛の小説に「身投げ救助業」という小品がある。疏水に身投げする者を見つけると竿を差しだして助ける老婆の話だが、板東さん「この話は第2疏水が出来て、疏水の流量が増えて深くなってからの話。出来ていない時は、自殺ができない。1メートルちょっとしかなかったから」「なるほど!」

 右の写真は、岡崎公園で開かれた京都市三大事業起工式の様子(疏水記念館にある写真です)。会場は多くの市民であふれ、西郷菊次郎市長が挨拶したあと、工事の開始を祝う催し物が開かれました。神輿をかついだり、相撲が行われたり、芸者が歩いたりして、お祭り騒ぎは夜まで続いたと言います。

敗戦後の岡崎にやってきたのは?

 板東さん「岡崎は、いまでこそ美術館や平安神宮などがあり京都の文教ゾーン、観光地としてにぎわっていますが、戦後はすぐ進駐軍がやってきて、米軍の施設や米軍の高級将校の個人用住宅として取りあげられていたのです。」

  この話を受け、大内照雄さんの『米軍基地下の京都19451958年』(文理閣刊)を読み直してみると、市勧業館、市商品陳列所、市公会堂が米軍の施設にされ、左京区浄土寺・岡崎方面では38戸の住宅が接収されていたことがわかります。いまはまったくそんな気配ありません。いつも観光客でにぎわっています。

疏水の両岸の高低差のわけは?

  岡崎あたりの疏水の傾斜(勾配)はほとんどないくらいなのに、水は流れています。取水口と放水口があれば平坦な所でも水は流れます。ここで向こう岸を見て、何か気づくことはありませんか?向こう岸の方が、こちら側より高いでしょ。(参加者…「そういうとそうだ」の声)なぜでしょうか?それはね、疏水を掘ったときにその土を向こう側へ積んだからなんです。ロームシアターやみやこめっせの側が高くなっているのは、そういうことだったのです。

インクラインは物も人も運んだ

   蹴上(けあげ)のインクラインは1890年に完成し、その翌年から疏水による水力発電を動力として運転されました。インクラインとは、坂道にレールを敷いて台車に乗せた船が坂の上下を行き来できるようにした傾斜鉄道のことです。蹴上のインクラインは、全長581m、落差は36m。動く原理はケーブルカーと同じです。動力室の巻き上げ機が電力で回転し、ワイヤーを巻き上げます。このワイヤーの上に台車が乗っているのです。通過時間は10分~15分かかりました。大津から京都へは、米やレンガや石材が運ばれ、京都から大津へは糠(ぬか)が全体の30%をしめていました。糠は漬け物や家畜の飼料のほか、洗剤としても利用されていました。料金は50石積み50銭、30石積み30銭でした。また疏水船に乗って疏水下りをすることは、明治時代に大ブームになったようで、町中の小学校の修学旅行で近江八景めぐりをするため、子どもたちが蹴上から乗船しました。このとき使われたのは第1疏水です(第2疏水は暗渠になっている)。途中3カ所のトンネルがありました。1948年まで、多くの人や物を運びました。上の写真は、インクラインを三条通りから見たところです。台車に船が乗っています。

 下の左の写真は、インクラインの高い方で、蹴上の船溜から船を台車に乗せて下っていきます。中央は、インクラインの低い方で、もうすぐ南禅寺船溜に入って行きます。右は、2台の台車をひっぱるケーブルを巻き上げるドラムです。直径3.6mもあり、動物園の休憩所の真下にいまも置いてあります。この日は行きませんでしたが、疏水記念館から入って行けば見ることができます。ケーブルははずされています。

 

  もともと、琵琶湖疏水建設に発電計画はなかったのです。インクラインの下で上から流下する水で、水車を回しその力で台車を引き上げる計画でした。ところが、琵琶湖疏水完成間近に田辺朔郎は発電計画への大転換を図り、インクラインも、急きょ電力による動力でドラムを回すことにしました。それが今公開されているドラムです。ただしこれは第2代目で、第1代目は蹴上の船溜まりの近くにありました。

もしこれがノートルダム大聖堂にあったら…

  第1疏水と第2疏水が蹴上で合流します。そこから琵琶湖の水を専用の水道管を埋めて、本願寺へ運び、防火用水や堀や池の水として使っていたのです。本願寺水道と呼ばれていたもので、1897年田辺朔郎の設計で作られ、2008年老朽化で停水するまで活躍していました。高低差約50メートルを利用し、一切ポンプを使わず消火栓を開け放水銃を向ければ、御影堂の大屋根まで水が届きました。

  本願寺水道と同様に、合流地点から、御所にも直接水道が引かれていました。御所のなかに70カ所の消火栓が設置され、バルブを開くだけで紫宸殿の屋根を超す放水ができたとのことです。1912年から1987年まで使われ、1954年8月16日夜に鴨川河川敷であった花火大会の火が小御所に落下し火事になった際に稼働し、延焼を防いだという記録が残っています。本願寺も御所も江戸時代の火災の苦い教訓がもとになっているようです。4月15日にあったノートルダム大聖堂の火災の直後だけに、参加者も先人の苦労をに思いを馳せていました。

 上の写真は、1912(明治45)年5月14日、御所で行われた噴水試験を撮ったもので、紫宸殿の上まで水が届いていることがわかります。ポンプを使わず、高低差の水圧だけで届いているのです。

蹴上の発電所は最初のものではない!?

  蹴上の発電所としてよく出てくる煉瓦造りの建物(右の写真)は、最初の発電所ではありません。その建物は第2期の発電所で1912(明治45)年の第2疏水の完成とともに作られたものです。じゃ、日本で事業用の発電として第1号の第1期の発電所は?第1期は、1890年第1疏水ができた次の年に運転を開始し、インクラインや京都電気鉄道(京電、のちの市電)の電力を供給しましたが、第2期ができるともに取り壊されました。その後、第1期の跡地に1936(昭和11)年第3期の発電所が建設され、現在は関西電力の発電所となっています。蹴上から発電所に向かっている送水管は、第2期の建物の横を通りすぎ、第3期の発電所に向かっています。

なぜ疏水の分線は南禅寺を通るのか?

  これがご存じ、水路閣。サスペンスドラマのセットではありません。第1疏水と第2疏水が蹴上で交流したあと、その一部が疏水分線として南禅寺の境内を通るときにこの水路閣を通ります。水路閣は、長さが約93m、幅が4m、そして高さが9m。設計はやっぱり田辺朔郎。できたのは1888(明治21)年。もう少し南側を通せば、こんな古代ローマの水道橋のようなものを作らなくてもよかったのですが、南側には亀山天皇陵があるため許可が下りなかったようです。京都府が宮内庁には負けたが南禅寺は説得したという明治期の政治力学がわかる建造物です。そうした力関係の結果できた水路閣がいまや観光名所になっています。

  の写真は、水路閣を上から撮った写真です。いまも現役です。水路閣を西から東へ流れた水は、このあと第5トンネルを通って、北へ向かいます。京都盆地は北方が高く、南へ行くほど低くなるのにこの分線の水は北へ向かって流れています。哲学の道の下を北へ流れているのは、この水です。この分線の水が、自然の川である白川と交差するところがあります。さて!どうなっていると思います?(こうなってくると、板東の目がますます輝くのです!板東さんの熱意に、みなさん感動、感謝でした!!)

感想文(一部)

★とてもマニアックで、基礎知識を身につけてからもう一度聞きたいなと思いました!知らなかった疏水豆知識をたくさんGETできてよかったです。ただ歩くだけでは気づけない歴史の名残をたくさん感じられて、大満足でした。 

                    今西 由紀

 

★疏水や疏水の歴史・変遷が分かりました。未だに現代でもその地形や跡がのこっていたので、疏水に対する理解が深まりました。テキストの8ページ、9ページの水流の変遷が非常にわかりやすいものでした。 島崎 太樹

 

★苦労した分、旅の記憶がより印象深いとずっと思っています。今日はいっぱいあるきながら説明を聞いていたので、きっとしばらく頭に焼き付くに違いないです。ありがとうございました。    趙家輝(中国からの留学生)

 

★自然水圧で水を引くしくみをもっと詳しく知りたいです。等高線に沿って疏水を作る利点がわかりました。しかし、小学4年生の子どもたちに教える時にイメージがつきにくいため、何を模型としていけばよいかを考えていきたいと思いました。 上岡 美月

 

★今回、学生のため、予備知識があまりない状態での参加でしたが、疏水についての歴史など、実際に歩いてみながら説明が聞けたためとても学びになりました。

★初めて知ることが多く、頭の中はいっぱいになりました。一人で歩くとすっと通ってしまう所ですが、所々大事なところで立ち止まって案内していただけて、そうか~と思うことしきりでした。子どものころ、松ヶ崎浄水場の近くに住んでいました。その水が、どこから届くのかとそのころは全く知らなかったので、なるほど、と思いました。 

                   嶋津 とき

 

★少し内容が難しかったので、どのようにして教材化していくのかも知りたいと思いました。初めて見たものばかりでおもしろかったです。 加藤 佳乃

 

★京都の大動脈たる疏水が、いかに歴史の種々の人・物・宗教などとぶつかりながら造られてきたかがよくわかりました。ローマ時代の水道橋やローマ道を思い出しながら楽しませてもらいました。 中谷 臣

 

★南禅寺で水路閣が見られるのは知っていましたが、京都市の北へ水を運ぶためとは知りませんでした。実際に歩いてみて高低差や川の曲がりを実感でき、楽しかったです。自分の率直な疑問から、発問づくりのヒントが得られた気がします。

 

★天気も良く、景色もキレイで大変楽しかったです。1回生の時に少し調べた程度だったのですが、今回詳しい話を聞けてためになりました。ありがとうございました。 

                    山田 ありさ


★今年度、初めて4年生を担任するので参加させていただきました。疏水については、ほとんど知識がなく、はじめは説明していただいている内容もよくわからなかったのですが、資料を見て、実際に歩いてみるとだんだんと疏水について面白いと感じることができました。ありがとうございました。今後に活かしていきたいと思います。

★今回は参加できてとてもよかったです。坂東先生の資料もとてもよかったです。この地何回もしらべ、分かりやすかったです。一日コースでもいいくらいのコースでした。今度は文章でも読んでみたいと思います。板東先生、ぜひ文章化してください。今日はありがとうございました。

★初めてしっかりと疏水について学びました。今の時代はネットなどですぐに調べて学習することもできますが、実際に自分の足で歩き、体験すると、スケールの大きさに驚きました。また、小学校に戻った時に、疏水の役割など大切なことを伝えていきたいと思います。 下村 晃士

 

★疏水の計画から移り変わりを実物を目の前にして説得力のある解説で迫力をもって理解できました。水路とトンネルの変遷がとてもおもしろく、それ自体に「歴史」を感じました。吉川 茂光


 

★琵琶湖からの水の流れに沿って、実際に歩いてみて疏水のつくりやその経緯が良くわかりました。資料(冊子)も充実していて、今日のフィールドワークと合わせて、もう一度深めていきたいと思いました。特に冊子のp.8,p.9掲載変遷①~④水流の変遷はじっくりと検討していくつもりです。京都歴教協のスタッフの皆さん、お疲れさまでした。       奥村 信夫

★夷川発電所の近くに、かつて「伸銅」会社が数件あり、製麺会社があり…。どれも水力を有効に使った工業ですね。日本の産業革命期にタイムスリップしたような心地になりました。高校の地理でも断然使えます、疏水ネタ。疏水に自然地形としての川、白川が取り込まれているのにも驚きました。昔懐かし京都会館(今はロームシアター?)のあたりはGHQが接収していた所。昨年京都大会の地域に学ぶ集いで講師をしてくださった大内さんのご著書を思い出しました。蹴上のあたりは本当に素敵で、結構好きです。

                    大川 沙織

 

★疏水は普段なんとなく見ているだけで、全くどうなっているのか知らなかったけれど、疏水がどう通っていてどこにつながっているかを知ることができてよかったです。

                     小山 優

 

★とても詳しく説明いただいて、ありがとうございました。また時々おやりください。上島 裕

 

★詳細な疏水の説明ありがとうございました。京都にいながらこの疏水をずっと歩いたのははじめてで、いろんなバラバラの知識がつながり、「あー、なるほどなァー」と思いました。インクラインって有名なんだけど、傾斜鉄道っていうこととそれが北国の物資―琵琶湖―京都―淀川―大阪へつなぐ物流の「要」となる重要な役割を果たしたことについて、認識を新たにしました。お天気も良かったし、しんどかったけど、参加してほんとに良かったです。スケッチポイントもいっぱい見つけました。お世話いただいた先生方ありがとうございました。 森川 敬子

 

★面白かったですが難しくもありました。実際に歩いてみて、新たに疑問が生まれました。もっと調べてみたいなと思いました。次は琵琶湖の方から歩いてみたいです。 

                   菱山 充恵

 

★フィールドワークの醍醐味を味わえました。疏水の幹線、分線がこんなに入りくんでいたこと、時代と需要に応じて変化するさまを認識できました。 家長 隆

 

★一度、高社研で参加しましたが、ここまで細かく説明していただけたので、改めてとても勉強になりました。変遷がいろいろありすぎて難しかったです。本書いてください!!

 

★4km、2時間半!戦争遺跡の会で知り合ったご高齢の方から、お父さんに連れられた小さな女の子まで、中国からの留学生も来てくださり、41名もの参加ありがとうございました!ああすればよかった、こうすれば…と反省ばかりしておりますが、このステキな感想文に思いっきり励まされています。また来てください! 辻 健司